全能のパラドックス
全能の逆説とは?
全能の逆説という哲学がある。
全能、つまり不可能なことがない神様が、自身が持ち上げることのできない石を創造できるのかという問い・思考実験のことだ。
全能な神様はなんでもできるのだから、当然なんでも作れる。自身が持ち上げることができない巨大で重い石だって創造できるはずだ。
しかしその石がある時点でその神様は「自分にできないこと(石を持ち上げる)」が存在し、全能ではないことになる。
論理的に考えればこれは矛盾であり、「だから全能な者(神)はいないのだ」という無神論者の論拠になっている。
全能の逆説の回答
全能者は「自身が持ち上げられない石」を作ることができるのか。
この問いに対しては様々な議論があるので、唯一の答えはない。
しかし複雑な議論を端折り大雑把に言えばこういうことだろう。
理論的な枠組みの中では(持ち上げられない石を作れる)全能者は存在しない。(もしも存在するなら)神は人の理論の外にいる。
自身が持ち上げられない石を創造する全能者は矛盾にあたる。つまり論理的には説明できない。
もちろん、「なにをもって全能か」という定義に目を向ければ、もう少しこの議論を広げることはできる。
例えば「全能者はいつでも石を持ち上げることができる重さに変えることができる」というものである。
全能者は一旦は自分が持ち上げられない石を作るが、それをやろうと思えばいつでも持ち上げることができるようにできる。
これは一見それらしく聞こえる。全能者が全能であるまま持ち上げられない石を創造できたように聞こえる。
しかしこれにも反論はある。「全能者は『石を持ち上げられるようにしないといけない』という行動を外部から強いられている」という点である。
つまり自分に持ち上げられない石を作った時点で、全能者はその石を持ち上げるための「なんらかの方法」を「使わなければいけない」。そこにはたして全能であるが故の能力と自由意思はあるのだろうか。
このように定義問題での議論は反論に対し別の反論が出て要するにキリがない。
このため全能者が持ち上げられない石を創造することについて、論理的に確立するのは難しい。
そしてここで別の角度での見解が現れる。
そもそも不完全な存在である人間が全能者(神)の全貌を把握できるものだろうか。
そもそも神というのは人間の中の理論を越えた存在ではないだろうか。
もちろん、理論的に存在を証明できない存在を存在していると言えるのかという議論はある。
ただ無神論と有神論の落としどころとしては妥当ではないだろうか。
つまりこういうことだ。
全能者が自身が持ち上げられない石を創造することは矛盾する。少なくとも人間の理屈においては。
全能の逆説の解決法
「全能者が自分が持ち上げられない石を作ると途端に全能でなくなってしまう。この矛盾はどうやって解決したらいんだろう」男は言った。
「私が解決してあげよう」全能者は言った。
神々し光の中で創造されたかと思えば、早々に老人は石を持ち上げようとする。しかしその石は重く大きくとても持ち上がらない。
「どうだい?」全能者は言った。
老人を創造した全能な石は、見事「自分が持ち上げられない石」となった。