無能な人は思い込みが激しい
無能な人の特徴
無能な人は思い込みが激しい。
別に私が有能で他人が無能であるという話ではない。
そうではなくてあくまで仮説として、一般論として、無能な人は思い込みが激しい傾向があるのではないかということを考えていきたい。
自分を信じること
思い込みが激しいとは、自分の考えを信じる、つまり自信があるということでもある。
つまり「根拠のない自信」を持つということだ。
ある種の優秀さにも自分を信じること、思い込めることは重要だ。
根拠のない自信が新しい創造的な成果を導くこともある。
根拠のない自信を持つ無能と、根拠のない自信を持つ有能は紙一重なのだ。
根拠のない自信は無能さの引き金にも有能さの引き金にもなりうる。
では、無能な人の根拠のない自信と有能な人の根拠のない自信の違いはなんだろうか。
無能な人の思い込み
無能な人は根拠のない自信で頑固になり視野が狭くなり、その価値観を相手に強要する。
論理的に情報を集めたり検証ができず、最終的には感情論で物事を決める。
感情論で物事を決めるから状況に流されるし、かと思えば感情で動いているので不毛な頑固さを示すこともある。
そしてそのような不毛な理論を相手に強要する。
これが正しい、あなたは間違っている。私は真実を知っている。
他人の考えを変えることは難しいが、無能な人の考えを変えるのはもっと難しい。
なぜならそこに論理的で中立的な議論をする余地がないからだ。
無能な人は根拠のない自信を振りかざす。
一方で、有能な人は根拠のない自信を自分の内側に抱くことができる。つまり自己肯定感を持つことができる。
自己肯定感があるから自分が信念を貫くことができるし、そのときに過ちがあれば素直に認めることができる。自分と他人を安易に比べないから、自分を卑下したり他人を貶めたりする必要がない。
自分も他者もかけがえのない存在なのだと感じることができる。
根拠のない自信を外側に向けるか内側に向けるか。
これは無能な人と有能な人を隔てるポイントかもしれない。
つまり無能な人は根拠のない自信を「私は正しい。あなたは間違っている」という自己肯定・他者否定の材料にする。
一方で有能な人は根拠のない自信を「私はこう考え、あなたはこう考える」という互いの尊重に活用できる。
老害
思い込みが激しく感情論で物事を決める人を、周囲はしばしば「老害」と言う。
老害が老害と言われ嫌われる理由の一つに、自分の考え方を変えない頑固さがあるだろう。
その考えが感情論に流された建設的なものでないから困ったものだ。
有能な人はある種の可変性を持っている。
つまり考え方を柔軟に変えることができる。
自分が間違っていても他人の主張の筋が通っていればそれを認めることができる。
変化に対して、他人に対して、尊重した態度を取れる。
なぜ優秀な人は自分の過ちを素直に認めることができるのか。
それは「目先の問題で間違っても、自分の存在自体が誤りになるわけではない」という根拠のない自信があるからだ。
失敗は誰にでもある。だから少しの失敗で自分の存在意義自体がなくなるわけではない。そういう切り分けができている。
だから優秀な人は周囲から「あの人に話せばわかってくれるかもしれない」と期待してもらえるし、それが信頼につながる。
しかし老害はそうではない。
根拠のない自信で「私が間違っているように見えても実は正しく、むしろ君が間違っている」とまで言わんばかりの傲慢さを振りかざすときもある。
老害は「あの人には何を言ってもダメだろう」と諦められる。
だから周囲から「放っておこう」と見放されたり「ご機嫌を取ればすぐYESと言う」と見下されたり、「酒を飲ませておけば機嫌がいい」と小馬鹿にされる。そういう人を掌で動かすための処世術を周囲に使われ、対等に扱ってもらえない。
変化していくということ
だから私達は根拠のない自信を自分の中に持ちながらも、他人の考えを受け入れる柔軟性を持っていなければならない。
これらは時として矛盾するから難しいことだ。
しかしより良く生きる上で、やってみる価値はあるのではないだろうか。