床屋のパラドックス
床屋のパラドックスという思考実験、パラドックスがある。
いわゆる自己言及のパラドックスの一つだ。
自己言及のパラドックスとは、そのルールに自分も当てはめた場合に矛盾が生じてしまう理論や文章のことだ。
床屋のパラドックスは以下のような内容となっている。
ある村に、たった一人の床屋がいる。
その床屋は自分で髭を剃らない人全員の髭を剃り、自分で髭を剃る人の髭は剃らない。
床屋のパラドックスと言われる上記の文章は、一見当たり前のことを書いているように思える。
村に床屋は一人しかいないのだから、自分で髭を剃らない、つまり髭を剃ってもらっている人はその床屋が全員対応していると言える。(妻に剃ってもらっている人もいるといった野暮な回答は一旦置いておこう)
だから床屋が髭を剃っていない人は、必然的に自分で髭を剃っている人だ。何の変哲もない。
しかしこれは「じゃあ、床屋自身の髭はどうしているのか?」という問いを出した途端に矛盾が生じる。
つまり、床屋が自分で髭を剃っていたら、床屋は「自分で髭を剃る人」になってしまう。床屋は自分で髭を剃る人の髭は剃らないのだから、自分で髭を剃ってしまっては矛盾だ。
かといって、自分の髭を剃らず伸ばしっぱなしにしていては、床屋は「自分で髭を剃らない人」になってしまう。床屋は自分で髭を剃らない人全員の髭を剃っているのだから、それはそれで矛盾である。
床屋のパラドックスはパラドックスなのであって、別に謎解きのような解答があるわけではない。
例えば床屋は女性であった(なので自分の髭を剃る必要がない)とか、床屋は外の村の人間だった(なので床屋自身は村人にカウントされない)といった答えがあるわけではない。
あくまで床屋のパラドックスは、自己言及すると矛盾が起こるというパラドックスなのである。それ以上でもそれ以下でもない。
しかし僕はこの床屋のパラドックスにある種の教訓のようなものを感じる。
その教訓とはつまり、物事は自分に当てはめると(たとえそれがいかに簡潔な物事であっても)しばしば矛盾が生じてしまうということだ。
床屋のパラドックスの矛盾と教訓を僕に当てはめるとこういうことになる。
日本において会社は残業をした全ての社員に残業代が支払われ、残業をしていない社員には残業代は支払われない。
けれど残業をした僕に(というか同僚も含め皆に)会社が残業代を支払う様子は一向にない。