【ショートショート】水槽の中の脳と科学者と娘の会話

哲学・思考実験・パラドックス

水槽の中の脳と科学者

 水槽の中の脳という思考実験の類がある。
 脳が特殊な培養液で死なないように維持されている。その脳は電極によって様々な刺激を受け、まるで自分が生身の身体で普通に生活をしているような感覚を覚える。それゆえに水槽の中の脳は、自分が水槽の中に入っている脳だけの存在と気づいていない。

 自分という存在が実在するのかという哲学であると同時に、昨今の科学技術の発展を考えさせる思考実験だ。

 20xx年、一人の科学者によって水槽の中の脳は再現された。
 脳科学者の水野は今、水槽の中の脳に電気信号を送っている。
 昨年、水野の最愛の娘は交通事故に遭った。なんとか脳は無事であったものの、体の損傷は大きく元の生活に戻れる見込みはなかった。激しい葛藤の末、水野は自身が行っていた研究を適用することにした。娘の脳に電気信号を送り、自身が今まで通り生活をできている感覚を送り込む。
 娘の言葉はコンピューターから音声として出力される。水野がマイクに語り掛けると、その音声は処理され娘は(研究室ではなく)リビングで普通に父と会話をしているような幻覚を見る。こうして水野は娘と再びコミュニケーションを取れるようになった。
 娘は自分が水槽の中の脳であることを知らない。水野はそのことを娘に打ち明ける決意がまだできていない。せめてもう少しだけ、娘とこうして会話をしたい。水野はそう思った。水野は優れた科学者である以前に、愛する娘を持つ一人の父親だった。娘に本当のことをどう言えばいいのかわからない気持ちと、今こうして娘と再び話せる喜びの間で水野の葛藤は続いている。

「という幻覚をお父様の脳は見ているのですね」
 科学雑誌ブレインサイエンスの記者はそう言った。
「そうです。父は今、愛する娘と話す夢を見ています。妹が事故でこの世を去り、私もひどく落ち込みました。しかし親である父の悲しみはそれ以上だったようです。論理的な科学者であった父が、まさか自ら命を絶つなんて。しかし奇跡的にも脳を取り出せる状態にあったことは、運命と言うのでしょうか。『水槽の中の脳プロジェクト』は、父の脳によって完成しました」
 水野の息子はそう言った。
「お父様は娘さんがもうこの世にいないことや、自分が水槽の中の脳であることはご存じなのですか」
 記者はメモを取りながらインタビューをしている。それに水野の息子は淡々と答えていく。
「知りません。妹の脳が無事であったというのは私の作り話です。父の脳には妹の事故の記憶が非常に鮮明に記憶されていました。私の力ではそれを完全に消去することができず、『脳がかろうじて無事であった』という設定しかできなかったんです。だから苦肉の策とでも言いましょうか」
「お父様への告知は?」記者は聞いた。
「正直わかりません。父は今、自分が水槽の中の脳であることに気づいていません。しかしいつかは打ち明けなければいけない。そう思っています」水野の息子はそう答え、インタビューは終わった。
「しかしあれですね」記者は少し雰囲気を崩し、インタビュー後の雑談として言った。「こういう研究をされていると、自分ももしかしたら『水槽の中の脳』なのではと不安になることはありませんか?」
「そりゃあ、しょっちゅう思いますよ」水野の息子も雑談の口調で言った。
二つの水槽の中に入ったそれぞれの脳は、笑いながらそんな雑談をしていた。

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