気を遣われているとわかると嬉しくない

オムニバス(エッセイ風小説)

気を遣われていると嬉しくない

気遣いの息苦しさ

 ああ、自分は今この人に気を遣われているな。
 そう気づくと、なんだか申し訳ないし堅苦しい感じがしてしまう。
 人が自分に対して丁寧に接してくれてるのは嬉しいけれど、やっぱり「気を遣われているな」とわかるとどうも居心地が悪いものだ。

 だから僕は、人に(できることなら良い意味で)気を遣わず正直に接するようにしている。

気を遣われて白けるということ

 どのような優しさも、どのような親切も、それが自分に気を遣って相手が無理をしているとわかれば、なんとも申し訳ないと僕は思う。

 結局のところそういった気遣いは相手に無理を強いるし、こちらも気を遣わないといけなくなる。
 そういう人間関係は疲れるし、あまり長続きしない気がする。

 僕達は社会の中で社会性を身につけていくけれど、それをまったく疲れず行えるばかりではない。

だから僕は正直でありたい

 相手の言葉や行動が、本心からのものであれば、その親切や心遣いは僕にとって嬉しい。

 反対に、相手の言葉や行動が、気を遣って無理をしたゆえのものであれば、僕は申し訳ないしなんだか対等な人間関係でない気がしてしまう。

 だから僕は、自分が無理をして本心とは別のことを言ったりやったりしたとき、相手がそのことに気づいたら嬉しくないんじゃないかと思う。

 僕はできるだけ正直であろうと心がけている。
 自分の心が無理をしたり負担を感じるのであれば、無理に相手を気遣ったり親切にしたりしなくてもいいんじゃないかと思うときがある。

親切は人のためならず

 情けは人のためならずという言葉がある。
 人に思いやりを持って接することは、巡り巡って自分に返ってくるという意味の言葉だ。

 親切や気遣いは人のためならずだと、僕は思っている。

 本来、親切や気遣いは、その人のことが大切で、自然と「そうしたい」と思ってやるものだと思う。

 例えばマナーとか、常識とか、大人の社会とか、そういう慣習に自分の価値観を無理に当てはめて、無理をしてやるものではない気がする。

 親切とか思いやりが、その人の本心からのものだとすれば、それが相手を嬉しくするのではないだろうか。
 逆に気を遣われていることが透けて見えれば、なんとも居心地が悪くなると、少なくとも僕は感じるのだ。

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