チェーホフの発砲されない銃
チェーホフの銃とは
「チェーホフの銃」とは、無用な設定や回収されない伏線は書くべきではないという考え方だ。
物語や創作物のおけるテクニックというか、伏線に関連する考え方と言えるだろう。
物語に登場する要素は、その物語に関わるものでないといけない。
意味がないのに思わせぶりな要素を盛り込んだり、本筋に関係のない話や描写をダラダラとしてはいけない。
チェーホフの銃という概念は、そういった創作を行う上での作法を説いていると言える。
チェーホフの銃の例
例えば登場人物が神妙な面持ちで銃に弾を装填し、スーツの内ポケットに閉まったとする。
しかしその銃は発砲されず、物語で以後触れられることもなく、なぜ登場人物が神妙な面持ちだったのかも一切描かれず終わったら、「あのシーンは意味があったのか?ただ尺を稼ぐだけだったのではないか?」と見る側は肩透かしを食らってしまうだろう。
チェーホフの銃とは、物語を過不足なく描くためのテクニックであり教訓でもある。
チェーホフの銃の語源
チェーホフの銃とは、元はロシアの劇作家アントン・チェーホフが書いた手紙に由来する。
手紙にてチェーホフは「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない」と書いており、彼の創作物に対する考え方がうかがえる。
チェーホフは回収されない伏線を好まなかったのかもしれない。
チェーホフの銃の定義の難しさ
しかしながら、価値観が多様な現代においては、何を「物語と関係のない要素」とするかは難しい。
例えば登場人物がゲイであり、しかしその物語が同性愛を描く物語ではなかったとき、その登場人物がゲイであることは「発砲されない銃」なのだろうか。
ゲイという性的嗜好は、同性愛を描く物語でしか登場してはいけないのだろうか。
確かにLGBTを「特別な要素」とし過ぎるのは問題かもしれない。
しかし、性的多数派にとってみれば、登場人物がLGBTであったとき、そこにマイノリティーの葛藤や何らかの物語があることを予想してしまうのも(それが正しいか間違っているかは別として)また現実なのではないだろうか。
このように、チェーホフの銃は物語の技法において興味深くはあるが、その中身の定義は困難だ。
では、今チェーホフの銃について語っている私は、いったい何者であるべきなのか。
これを読んでる人がアジア人であれば、私が白人であることは「発砲されない銃」かもしれない。
これを読んでいる人が異性愛者であれば、私が同性愛者であることは「発砲されない銃」かもしれない。
これを読んでいる人が健常者であれば、私が障害者であることは「発砲されない銃」かもしれない。
逆もまたしかりだ。
だから私は、白人でもあり黒人でもありアジア人でもあるのだろう。
異性愛者であれば同性愛者でもあり、LGBTでもあり、健常者でもあれば障害者でもある。
そんな私が今手に持っている銃に弾を込めて、発砲しないまま机の上に置いたのなら、この物語自体がチェーホフの発砲されない銃かもしれない。
私は何者でもないし、銃も発砲されないのだから。
けれどこの物語は、見出しに「チェーホフの発砲されない銃」と先に書いておいたから、私が何者でもなく銃も発砲されないことは、「物語に無用な要素」ではないのかもしれない。
この文章は、発砲されない銃について書いた文章なのだから。