若さとは自分が嫌いなものと自分が違うと思えること
心の若さ
若さとは、自分が嫌いなものに対して「自分は違う」と思えることだ。
嫌いな大人がいて、「ああはなりたくない」と思えることだ。
凡庸な人間を見て、「自分は違う」と思えることだ。
煩雑な物事を見て、「自分だったらこうする」と思えることだ。
そうやって世の中と自分に線を引けるのは、その人に若さと可能性があるからだ。
他人事ではない世界
世の中の多くのこと(特にネガティブなこと)は、他人事ではなかったりする。
知人の病に気の毒だと思っていたら、自分もその病にかかったりする。
不幸な出来事だと他人に同情していたら、その理不尽さに自分も遭うことがある。
他人の嫌悪する言動を、自分もやってしまっているときがある。
私達は何一つ、「あなた」と「私」と区別できることはないのかもしれない。
全ては私達の隣にあって、それを嫌ったり排除しようとすればするほど、不思議とそれらは私達に手を伸ばす。
世の中はある意味で残酷なのだ。
世界の手順
それでも私達は自分と世界を区別したい。
あの人には落ち度があった。
あの人は努力が足りなかった。
あの人は周りが見えていなかった。
あの人は何かを持っておらず、私はそれを持っている。
そうやって他人と自分を区別して、自分は「○○とは違う」と思いたい。
世界には、上手くやるための手順みたいなものがあって、それをきちんと踏めば結果が出る。
そういうふうに思いたい。そういう手順を自分はこなせる。そう思いたい。
けれど、多くの場合、そんな手順は存在しないのだ。
世界は「ただそうあるだけ」であり、誰かと誰かを明確に区別できる線はない。
自分に期待したい
自分が他者と違うと思えることは、ある種の若さだ。
それは自分に期待できるとうことだ。
それは時として可能性を広げてくれるし、時として視野を狭くする。
だから自分と他人の線を引くことに、良いも悪いもない。
しかし自分を持てるということは、若さであり、心の若さだ。
私達は、肉体とは別に、心の若さについて見つめるときも必要だろう。