どうでもいいと思えることはカッコイイことだろうか
どうでもいいという立場
どうでもいいと思えることは、カッコイイことだろうか。
どうでもいい、興味がない、中立である。
そういうスタンスはどこか達観していて冷静で、物事を広い視野で見ることができている気がする。
けれどそれはカッコイイことだろうか。
思春期の中学生のように
どうでもいいと思えるのは、それを知らないからかもしれない。
興味がないというのは、自分に酔っているだけかもしれない。
中立であるというのは、周りを気にしているだけかもしれない。
そうでない場合ももちろんあるだろうけれど。
どうでもいいと、高い視点から見ているように自分を見せることは、時として、例えば思春期の中学生のような安直さがある。
何かを知らないことは罪ではない。何かを知らない人でも物事を語る権利はある。
しかし何かを知らない人が、自分はどうでもいいと、中立であると、意見を完結させることは、何かを知る人に対していささか安易かもしれない。
白と黒とグレー
白か黒か、物事は必ず二者択一で決まるわけではない。無限のグレーのグラデーションがあってもいいだろう。
この世界に生きている当事者として、白か黒かを決めないといけないときもある。あるいは、悩み苦しみ、グレーを選ぶときがある。
いずれにしてもその葛藤は、「どうでもいい」でも「興味がない」でもないだろう。
当事者として何かを背負うということ
どうでもいいと思えることは、ある意味で身軽であるということだ。
身軽であり自由であることは、人生を生きやすくしてくれる。
一方で、何かを背負い、そういう背負った荷物が増えていくことも人生にはある。
背負う物が多い人生は、幾分身動きがとりづらいかもしれない。
しかし何かを背負うということは、何かを肌身で感じるということだ。それは何かの当事者になるということだ。
生きていく上で、何かの世界の当事者になるということ。
それは面倒なことが増えるし、きっと辛いこともある。
けれど、私達はこの世界に生きていて、何かの当事者になる。
私達は達観できることばかりではない。自分の頭で苦しみ悩み、何かを考えることがあるのだ。それは自分と世界のつながりに、責任を持つということでもある。
私は、どうでもいいと達観する人間よりも、当事者としてもどかしく生きる人間が好きかもしれない。