人の命の終わりの隣で
生きていけばいくほど、人の死に出会う確率は高くなる。
それは私にとっての処世術の一つだ。
人の命の終わりに出会うことに疲れたら、本当に疲れたら、そのときは自分の命が終わるとき。
そう思うと、幾分、誰かを失う悲しみを抱きながらでも、朝を迎えることができる。
もちろんそれは達観でも、ましてや生きるための真理でもない。
慰めですらないかもしれない。
ただ、今を生きるにあたって、悲しみに蓋をしてくれる、一種のまやかしだ。
けれど、そのまやかしで、生きることが少し楽になることもある。
自分が生きていれば、誰かの命の終わりに出会うこともある。
長く生きれば、そのぶん人の死を経験する確率は高くなる。
それは当たり前のことだ。
そう思うことで、生きることを力強くではなくと意気込まず、少し肩の力を抜ける。
大切な人が死ぬと、やっぱり悲しい。
繰り返される死との出会いに、私達は毎回深く傷つく。
そうやってすり減った心で私達は生きる。
悲しいことばかりかと思えば、それでも時々、優しいものや素敵なものと出会う。
生きていることも悪くない。そう思わせてくれる。
そうやって心が少し回復した頃に、私達はまた新たな死と出会う。
生きるとは、ずいぶんと残酷なことでもある。
だから生きるために大切なのは、向き合う強さではなくて、よそ見をできるいいかげんさなのかもしれない。
新たな死は同じように私達の心をすり減らす。
繰り返される悲しみは、人を絶望させるかもしれない。
一方で少し俯瞰して見れば、私はずいぶん生きたのだとも思う。
私は人より長く生きたから、誰かの死を目の当たりにするわけなのだから。
死の悲しさと命の温かさを同時に抱きながら、私達は生きている。
命について思うこと
誰かの死に出会う度、私はそのようなことを思う。
誰か大切な人が死ぬ度に、私の心はすり減り、無力感にさいなまれ、悲しみや喪失感に襲われる。
一方で、自分は今生きているのだということを感じる。
誰かの命の終わりは日常を非日常にし、きっかけとして自分の命を、別の大切な人の命を感じる。私達は生きている。
そのとき、昨日より少し、今ある命を大切にしようと思える。
誰かの死に出会うということは、今自分は生きているのだということの逆説でもある。
誰かの死に出会うということは、他の誰かはまだ生きているのだということでもある。
もちろんそれが何かの慰めになるわけではない。
人の死を超越できる真理でもない。
私達は命にもがくことも、死へ恐怖することも、やめることはできないだろう。
私達は生きている。時折誰かの死と出会う。
そうやって生を感じ死に出会うことに疲れながら、いつか私自身の命も終わりを迎える。
そう、私の命にも限りがあるのだ。
生きてみるということ
生きていけばいくほど、人の死と出会う確率は高くなる。
大切な人の死と出会い、その度に私の心は消耗する。
そうやって死と出会うことに疲れながら、いつか私自身の命も誰かのように終わりを迎える。
人の死と出会うことが積み重なってその悲しみが溢れだして疲れきったとき、私は自身でその入れ物を壊して死を選ぶだろうか。それはわからない。
それでもまだ余力があれば、私はもう少し生きるかもしれない。
人の命には限りがある。私の命にも限りがある。
きっと私の命の容量は、それほどたくさんの人の死を受け入れることができるようには作られていない。
けれど少しは人の死を、抱いたまま生きることもできなくはなさそうだ。