両親が離婚することと、高校生の私が思うこと

短編小説

Engagement Ring

平凡

 両親が離婚する家庭は少なくない。
 離婚は結果であって原因ではない。そして人生により示唆を与えてくれるのは原因のほうである。
 しかし私達は結果に対して何かを感じずにはいられない。
 自分の親が離婚をしたとき、ある人は愛について考えるかもしれない。またある人は家族というものについて考えるかもしれない。またある人は平凡な幸福とは何かということを考えるかもしれない。
 いずれにせよ、離婚という結果だけでは人は非凡にはなれない。離婚という事象は、周囲にたくさん存在するからだ。それでも人は、そこに特別な何かを見出したくなる。

結婚指輪の物語

 彼女はファーストフード店の窓際の席に座っていた。テーブルを挟んで椅子が一つずつ。けれど席が埋まっているのは一つだけ。彼女の向かいには誰もいない。彼女は放課後によく一人でここに来る。テーブルには冷めてしまったコーヒーとポテトがあった。それらはほとんど手をつけられることなく対面する席のほうに押しやられていた。彼女の目の前に置いてあるのはノートで、左側にセンター試験の過去問題集。右端にはペンケース。ノートには要点がまとめられ、問題集には回答が直接書き込まれていた。赤の水性ペンで答え合わせがしてある。不正解のところには簡潔に正解の番号しか書き込まれていなかった。彼女は頬杖をついてぼーっと窓の外を見ていた。集中力が切れてしまっていた。時計は午後の九時を回っている。もう四時間以上この席で一人問題集と向き合っていたことになる。外は当然のことながら暗くなっていた。道路を走る車もヘッドライトを点灯させている。店内に自分と同じ高校生はもういなかった。彼女は耳にイヤホンをつけている。それはスマホへとつながっているが、音楽が流れていることは少ない。大抵は周りの雑音を遮断するためにつけている。
 ちょっと休憩。
 彼女は心の中でそう思った。

 最近の彼女は高校が終わるとそのままここに来て夜遅くまで一人で勉強している。彼女にとって一人であることは苦ではなかった。彼女は放課後一人で勉強し、家に帰り、風呂に入り、歯を磨いて、寝る。そのような毎日を繰り返していた。しかしながら彼女には行きたい大学というものが具体的にあるわけではなかった。担任や両親はある有名私立大学を受験してはどうかと言っている。彼女の通っている高校はちょっと有名な進学校だったから、成績が現時点で中の上の彼女には不可能な選択肢ではなかった。必死に勉強すれば手の届く可能性のあるものだった。しかし彼女はその大学には行く気はなかった。別にその大学が嫌いなわけではない。自分がそのようなブランドの大学に入れるならそれは望ましい。しかし、彼女は選択肢からその大学をはずした。彼女は高校を卒業したら家を出て一人で暮らすつもりだった。そのためには近郊にある大学では駄目なのだ。もちろんそのような大学に行き、あえて一人暮らしをするという選択肢もある。自立や社会勉強のためだと言えば通らない意見ではないだろう。しかしそれでは意味がない。彼女はできるだけ遠く親戚や知り合いがいない街に、友達がいないような大学に行きたかった。そしてそこからまったくの一人での生活を始めたかった。それは彼女にとって、もっとも切実な望みだった。そして最優先事項だった。しかしそんなことを誰に言えるだろうか。就職率や偏差値を無視した彼女の考えなんて誰が支持してくれるだろうか。彼女はある意味では孤独を、強く求めていた。そこには失うものがないような気がしたからだ。もちろん、失うべきものが何もない人生は悲しい。彼女はそう思っている。しかし自分は一度その孤独の中に身をおくべきなのだと感じていた。失うものが何もない、ゼロの自分。知らない町、知らない人々。一人の生活。彼女はそれらを求めていた。その中でなら自分らしさというものをもう一度見つめることができ、そして獲得できる気がした。自分にとって最も標準的な自分とはどのような自分なのか。他人に左右されないで、自分のみで自分を動かすとき、自分は何を感じ考え何を望むのか。彼女はそれをはっきりさせたかった。それがこれからの自分には絶対に必要な気がしていた。今この街で生きる自分は、いろんなところから少しずつ自分の欠片を奪われている気がしてならなかった。

 彼女の両親は昔から仲が悪かった。はじめは些細な意見の食い違い程度だった。彼女から見ればどこの家庭にもある一時的な衝突だった。おそらく当人達もそう思っていただろう。一緒に生活していればこの程度のことはあると。しかしそれらはだんだん埋まらない溝に変わっていった。高校に入学した頃にはその溝は致命的なものになっていた。怒鳴り合うようなことはなかったがいつも顔を合わせれば冷ややかななんとも居心地の悪い空気が流れた。それでも彼女の両親が家庭を維持しているのは彼女と彼女の妹のためだった。大学受験という、人生の一つの山場を越えるまでは、自分達の事情で娘達の環境をかき乱したくない。それは父親と母親の一致した見解だった。二人は娘達を愛していたのだ。だからこれまで表面的には何も変わることなく生活が送られていた。
 しかしそれは彼女にとってつらいことだった。そのような環境で育った彼女は幼くして人の顔色を窺う人間になった。両親を愛するとき、そこでは平等さが求められた。父と母を、偏らず平等に愛する必要があった。彼女は両親のどちらも好きだった。二人が別れれば、私と妹は父母のどちらかに所属することになる。そのとき、「私の方に懐いている」という理由で一方が他方を攻撃してほしくなかった。彼女は二人を独立した存在として愛さねばならなかった。どちらかに笑いかければ他方にも同じ質量の笑みを与え、どちらかに言葉をかければ他方にも同じ機会を作らねばならなかった。そのような行為を(特に家庭という一番心休まるべき所で)行うことがどれほど人の心をすり減らし、損なわせるか、彼女は身をもって知った。
 彼女はもうそのような環境にいることに限界を感じていた。自分自身が嫌になってしまうし、それに両親の関係が悪くなっていく様子を間近で見続けることは耐え難かった。三つ下の妹が大学受験を終えるまで。それまで待っている余裕は彼女にはもうなかった。彼女は一刻も早く一人になりたかった。もちろん多少の罪悪感はある。妹をそのような環境に一人残して自分だけ違う環境に行くこと。それはある意味問題からの逃避行動であり解決のための行動ではないからだ。しかし彼女にはそうするしかなかった。両親がお互いのことを愛していないというのなら、それが正直な気持ちであるというのなら、そこに娘の自分が何を言えるというのだろう。父も母も親である以前に独立した意志を持った一人の人間なのだ。その意志を尊重しなければならない。そう、彼女も自分の両親を愛しているのだ。両親が自分を愛してくれているように。だから彼女は自分の両親の決断を覆すつもりはなかった。
 彼女はぼーっと外を眺めていた。最近はずいぶんと肌寒い。街の人々の流れを見ながら、彼女はふと思った。好きだから一緒にいて、愛し合ったから結婚して、それなのになぜ人は最後にはこのようになってしまうのだろう。私の一番近いところにあった愛は、そこにある生活は、今ひどく形式的なものになっている。
 見知らぬ女性が彼女の眺める風景を横切った。自分の親と同じか少し上の年齢に見える女性。女性の左薬指には指輪がはめられていた。それを見て彼女はふと思った。そういえば自分の両親が結婚指輪をはめているところを見たことがないな、と。二人は一体いつからお互いを愛していなかったのだろう。保育園の頃、よく日曜日は家族四人でドライブに行った。その頃の両親は今では見せてくれないような笑みを浮かべていた。あのときはお互いを愛していたのだろうか?それとも既にその頃から自分や妹を気遣って笑っていたのだろうか。わからない。彼女にはわからなかった。彼女はあの頃の両親の笑みと一緒に笑っていた自分を思い出し、少しだけ悲しい気持ちになった。これからの人生、誰かの左薬指にはめてある指輪を見る度に、このような気持ちになるのだろうか。彼女はそう思うと胸の中に小さな穴が開いたような感覚になった。そしてその穴に秋風が吹きぬけ、彼女の心まで肌寒くした。彼女は静かに一度目を閉じた。そしてゆっくりと開けた。深呼吸をした後に、彼女は席を立った。

モラトリアム

 秋も深まりずいぶんと肌寒い。もうすぐ冬が来る。彼女はマフラーを巻いている。背負ったリュックの中の荷物はそう多くはない。学校で使う教科書はほとんど彼女のロッカーと机の中にあった。ポケットの中にある携帯電話を出して時間を確かめる。
 彼女は、同い年の女の子と比較すれば幾分表情に硬さがあり愛嬌が少なかった。彼女は恐怖を感じている。周囲に合わせないことで失うものと、周囲に合わせることによって失うもの。どちらが自分にとって重いのか測りかねる。彼女は自分の感情、悩み、迷いは思春期特有の一時的なものである気もするが、一生自分についてまわるもののような気もした。結局答えはでない。

雑然

 「ただいま」彼女は言う。
 小さい頃から言っていた、「いってきます」と「ただいま」。今も言わないとなんとなく落ち着かない。でもあの頃のように玄関から扉を閉めたリビングへ聞こえるような大きな声では言わない。自分でも言ったか言わなかったのかわからないくらい小さな声で、彼女は家に一歩入ったときにただいまと言う。そしてリビングに入り、もう一度、今度はほんの少しだけ大きくした声でただいまと言う。
 彼女の母親はソファーの上でうたた寝をしている。彼女は一度自分の部屋へ行き鞄を置き着替えてから再びリビングに入る。
 「風邪ひくよ」彼女は言う。「ねえ」
 「ああ、おかえり」彼女の母親は言う。「今何時?」
 「十時」
 「そっか」
 「風邪ひくよ。寝るなら布団で寝なよ」
 「そうね」 母親はそう言って起き上がるが、ソファーから立ち上がろうとはしない。
 「ご飯は?」
 「大丈夫」
 「ちゃんと食べてるの?」
 「うん」
 嘘だった。ファストフードが、「ちゃんと食べている」うちに入るわけはない。
 「明日は?」彼女は言う。
 「遅出よ。明日朝ごはんは?」
 「大丈夫。自分で適当に済ませるから。寝てていいよ。お風呂入ってくるね。さっきも言ったけど、ちゃんと布団で寝なきゃだめだよ」
 彼女は念を押しそう言うが、彼女の母親は気のない返事をしただけだった。
 毎日の生活が嫌いだった。
 物を捨てられない母親の影響でリビングはひどく雑然としている。掃除機が届かない部屋の隅はきっとほこりがひどいことになっている。けれどそれを確認することができないほど物の山は高い。大学病院で看護師をしている母親は毎日ソファーで仮眠をとるように眠る。だからリビングには目覚まし時計やらタオルケットやらが散在している。最近はきっと暖房もつけっぱなしなのだろう。
 浴室でシャワーを浴びながら彼女は思う。どうせ母親は出勤前の朝にシャワーを浴びるだけなのだ。もらい物の入浴剤なんて全部捨ててしまえばいいのに。風呂掃除のためのスプレー洗剤だって詰め替え用は三つもいらない。こんなの近所のドラッグストアで年中買える。そもそも風呂掃除なんてめったにしないのに。寝室のクローゼットだって何年も着てない服だらけだし十年前のヒールの靴だって使わないはずだ。職場へは毎日高さのない楽なパンプスで行くくせに。
 考え出したらきりがなかった。いつものことだ。こういう毎日が嫌いだった。雑然としている生活が。片づけても片づけてもきりがない。彼女は潔癖症ではないが、自分の望ましいライフスタイルというものを持っていた。もちろん彼女は母親のことが好きだし感謝もしている。しかしそれとは別に、彼女は高校を卒業したら一人で暮らそうと考えていた。彼女には彼女の望む生活と孤独があった。

私といるこの子

 図書室で二時間ほど勉強をして彼女は席を立った。下駄箱の前で友人と会い一緒に帰る。何気ない話をする。
 明るい子だな。彼女は友人に対してそのような感想を抱く。
 どうして私はこの子と一緒にいるのだろう。どうしてこの子は私と一緒にいるのだろう。彼女はそう思うことが少なくなかった。私はこの子のように可愛く笑うことはできない。体育祭や文化祭でうまくはしゃげないし、男の子とうまくスキンシップもとれない。この子にはもっときゃぴきゃぴした友達がお似合いだ。彼女はそう思わずにはいられない。しかし彼女の考えとは異なり友人は彼女から離れることはなかった。これまで多くのクラスメイトが彼女に話しかけ、いまひとつはしゃぎ方に欠ける彼女という人間を確認し去っていった。クラスメイトは往々にして別の子とグループを作り、一緒に教室を移動したり昼休みを過ごしたりした。そして彼女のことを「さん」付けの苗字で読んだ。彼女が相手のことを呼び捨ての名前で言い、相手も彼女を呼び捨てにするのはこの友人だけだった。
 キャラは全く違うけれど、私たちは相性がいいのかもしれない。
 彼女はときどきそう思う。しかしその一方で、ただ単に相手の社会性が優れているだけなのかもしれないとも思う。友人は誰とでも仲良くできて、その人その人の空気に自分を合わせることができて、相手にとって私は気持ちを汲み取ってあげている人間のひとりにすぎないのかもしれない。そう思うと、自分がとても恥ずかしい存在のように彼女は感じた。

 ある夜中、彼女は自分のノートを表紙ごと破り部屋の隅に投げつけた。
 「疲れた」
 彼女はぼそっと独り言を言う。椅子から降りて部屋の隅に座り込み、しくしくと泣いた。自然と出てくる涙と、泣きたいと思い流す涙が半々だった。張り詰めていた糸がぷつんと切れて、体を支え切れなくなった。別にきっかけなどない。あったとしてもそれは日々の小さな不愉快の積み重ねでしかない。けれどそんな小さなことでも糸は切れるのだ。疲れた。そう思った。それを認めた瞬間とても悲しくなった。力が抜けた。でも、ノートを投げつけるときに力を加減した。隣の部屋の妹が起きてしまわないか不安だったから。そんな冷静さが残っている自分が、情けなかった。 とりたてて非凡なことではなかった。不仲な両親。会話のない家庭。多忙で余裕のない母親、帰りが遅い父親。過去形の愛情。離婚。もっと冷めた家庭なんて他にある。もっと力強く前向きに生きている高校生だっている。彼女はわかっていた。自分が悲劇のヒロインでは決してないことに。自分の生い立ちはドラマ的でもないし他人の目を引くものでもない。だから私が泣いても誰も同情してくれないだろう。自分に酔っていると苦笑されるのがオチだと。しかし、と彼女は思う。もっと温かな家庭や生活だってあるはずだ。それを無条件に手にしている人間だっているはずだ。そこに不公平さを感じずにはいられなかった。自分の人生の、平均的な人生の、地味なきつさが、彼女の精神をすり減らしていた。 ひとしきり涙を流したあと、ゆっくりと立ち上がり、彼女はキッチンへ行く。リビングではソファーで母親が寝ていた。大きな音を立てないよう注意しながら冷蔵庫から水を、戸棚からコップを出し、喉を潤す。水が喉を通り(実際には食道なのだが)まるで肺の毛細血管をたどるように、水分が胸部に広がっていく感覚を覚えた。コップをシンクに置き、彼女はそっとキッチンを出て自分の部屋に戻る。ベッドに横になるが眠気はない。しかし頭には夜更かしに相応しただるさがあった。目を閉じ、腕で目を覆う。何も考えないようにしながら、眠りにつくのを待つ。
  朝、当然のことながら彼女は起きる時間が遅くなった。久しぶりに母親の声で目を覚ました。体はだるく、頭には眠気がこびりついていた。彼女はなんとかベットから起き上がり、洗面所で顔を洗い歯を磨いて髪を整える。寝不足であることには変わりないが幾分それですっきりした。リビングに行くと母親がテレビを見ながら化粧をしていた。
 「何か作ろうか?」母親は言う。
 「大丈夫。あとで適当にしとく。とりあえず、コーヒー飲もうかな」
 彼女はそう言いながらキッチンへ行き、インスタントコーヒーをマグカップに入れてお湯を注ぐ。水きり棚にあった洗ったばかりのティースプーンをキッチンペーパーで軽く拭き、それでコーヒーをかき混ぜる。リビングに戻ると母親はもう身支度を済ませていた。
 「日勤でしょ?やけに早いね」彼女は言う。
 「朝一でカンファレンスなの。準備とかいろいろあるからね」母親は言う。
 「そういうのってさあ」彼女はコーヒーを一口啜ったあとに言う。「残業代って言うか、早く出勤した分のお給料とか出ないの?」
 「そういうもんじゃないのよ。仕事って」笑いながら母親は言ったが、穏やかに娘をたしなめているということは、彼女にもわかった。
 「いってらっしゃい」彼女は言う。
 「いってきます」
 わかっていた。仕事のために早く出勤しようが帰りが遅くなろうが給料が変わらないことくらい。でも、訊いた。訊かれることで気づいてほしかった。自分の体や、時間を大切にしてほしかった。
 家族じゃないんだよ。
 彼女は思う。感謝されているかもしれない。頼りにされているかもしれない。でも、患者や同僚は、家族じゃない。他人なんだ。そして私達は、家族なんだ。

戸籍

 市役所というものに訪れたのは彼女の記憶の限り一度あるかないかくらいで、一人で訪れたのは間違いなく初めてだった。中に入るまでは戸惑いもあったが、いざ入ってみると中は床や壁などいたるところに用件ごとに受付までのルートが表示されていて迷うことはなかった。彼女は案内板を丁寧に見ながら受付まで行き、指定の金額を払い自分の戸籍謄本を手に入れることができた。ロビーの椅子に腰をおろし、彼女はそのホッチキスでとめられた二枚の用紙を見る。母親と父親、私と妹。一つの家族であるという証明が、そこにはあった。
 近々正式に籍を外すと母親から聞いたのは彼女の大学の合格発表があってから一週間後のことだった。彼女は「うん、わかった」と言った。「あなたはどう思う?」と聞かれ、「二人で決めたことなら、私は何も言わない。それぞれの人生を、大切にすることも、大切なことだと思うから」と答えた。いずれ聞く言葉だった。そう思っていたが、実際に聞くとやはり心のどこかに戸惑いと落胆と彼女自身も言葉にできない感情が居座った。いろんなことが、やっぱり現実だったんだと思った。
 初めて離婚のことを聞いたのが高校一年の夏だった。母親と父親がうまくいっていなこと。離婚するかもしれないこと。当時母親は努めて正直に現状を話してくれた。彼女のことやの妹のことを愛していること。来年から再来年にかけて始まる受験勉強に迷惑はかけたくないこと。そして母親も父親も関係をやり直すことに努力していること。当時母親が離婚の可能性について話してくれたのは、たぶん父親との合意の上ではなく、母親単独の判断であることはなんとなくわかった。そのときも彼女は「うん、わかった」とだけ言った。その日を境に彼女は自分が過ごしてきた自分の家族との時間を思い起こすことが多くなった。そして自分が今までなんとなく感じていた、家族の不自然が腑に落ちた。母親も父親も、自分のことを愛していると母親は言っていた。たぶんそれに、嘘はない。真実だ。私も妹も、人並みに家族の思い出を持つことが出来ている。誕生日は毎年祝ってくれていた。小さい頃、ひな祭りにはひな人形を出してもらったし家族でピクニックにも行った。夏休みには祖父母の家に泊まりに行ったしクリスマスにはサンタが来た。母親も父親も、いつも私や妹のことを気にかけてくれていた。 でもなぜだろう、昔から違和感があった。なんだかマニュアルをなぞっているような不自然さがあった。この人達は母親父親という役割をこなしているだけなのではないか。そのように(言葉にはできなくても)ずっと彼女は感じていた。私の両親は友達の両親と比べるとなんだか違う。そんな印象を頭ではなく体で感覚として受けていた。そして言葉にならないかすかな感覚は、母親の打ち明けにより確かな感覚となった。点と点がつながった。私達の親は、私達を愛してくれていた。しかし夫婦としてお互いを愛してはいなかったんだと。そう知ったとき、拍子抜けする思いもあった。なんだ、そうだったんだと。私が感じていた感覚は、気のせいでも考えすぎでもなかったんだと。ただ事実を事実として感じていただけなんだと。それから彼女の心は家族がバラバラになるかもしれないという寂しさと、当人同士が決めることなのだから仕方がないという達観した気持ちとが交互に一定の周期をもって現れた。二つの感情は振り子のように彼女の心を右に左に揺さぶり、そして次第にその振幅は大きくなり、ある一定のところまでくると今度は小さくなった。最終的に振り子は中心で止まり、彼女の心は何も考えなくなった。そして今後はまったくの非周期的な感情の波が彼女を襲うようになった。彼女は時折力が抜けるように泣き、腹を立て、そこから立ち直り朝を迎えるということを繰り返した。たかが離婚なんだと自分の悲しみを恥じた。そしてその悲しみに襲われた。彼女はそのようにして日々を過ごしていった。 母親から正式な離婚の報告があって二、三日して、彼女はふと自分の戸籍というものに意識がいった。離婚すれば、今の戸籍の状況が変わる。四人が家族であるという書類が手に入るのは、今月までなのだ。そう思った彼女は学校を休んで市役所へ向かった。たかが紙切れ一枚。でもその紙切れを見ることはおそらく今後二度とない。そう思うと、たかが紙切れに固執する自分がいることに気づいた。 市役所のロビーで、彼女は自分の戸籍謄本を見て涙目になった。その涙が抑えきれないことを感じると、彼女は足早に市役所を出た。ハンカチで目元を拭きながら、できるだけ早足で歩いた。歩道ですれ違う人に気づかれたくなかった。
 離婚することはもう決まっている。お母さんもお父さんも、自分の人生を歩めばいい。無理に家族を続けるのなんてきっとみんなつらい。二人で話し合って決めたことなら、私は何も言わない。私は両親のどちらも好きで、好きだから自分らしい道を歩んでほしい。私や妹のことで何かを我慢したり嘘をついたりしてほしくない。だから、二人が離婚することに賛成だ。 だったらなぜ、私は、こんな紙切れ一枚にこだわっているのだろう?現実は変わらない。だったら、この紙をコンビニのゴミ箱に捨てたっていいのだ。でも、捨てられない。
 だって家族なんだよ。
 彼女はそう思った。
 代わりなんてない。たった一つの家族で、これからはそれが永遠に失われるかもしれないんだ。私達はもう家族ではなくなる。これからも、両親は私のことを愛してくれるかもしれない。けれど、もう四人で一緒に出かけることも食事をすることもないのだ。一緒に写真を撮ることもないし家族でそろって一緒の時間を過ごして、「楽しいね」なんて言うこともないのだ。愛してほしい。私や妹のことだけじゃない。お互いがお互いを愛してほしかった。愛し続けてほしかった。そしてその間に生まれた存在が私達であり続けたかった。私は、私の家族が好きなのだ。好きだから一緒にいて、愛し合ったから結婚して、どうして最後はばらばらになってしまうのだろう。この紙の中では、まだ私達は仲の良い家族だというのに。現実の私達は、もうすぐ、バラバラになってしまうのだ。

一人暮らし

 何軒か見た上で決めた彼女のアパートは、大学からは比較的距離があり利便性はよくない。けれどそれが彼女がこのアパートに決めた理由だった。大学の知り合いが急に家に来るという事態を避けることができる。
 引っ越しの手伝いは彼女の父親がしてくれた。力仕事は父親の出番であろうということと、母親はその日どうしてもはずせない仕事があるというのがその理由だった。けれどそれは建前と彼女にはわかっていた。引っ越しが終わり娘と別れた後、長時間二人だけで車に乗るのは気まずいのだろう。
 今までひとつ屋根の下で暮らしていた娘が、一人暮らしを始める。本来はもっと感慨深いムードになってもいいのかもしれないが、引っ越しは淡々と進んでいった。部屋の中の最低限の片づけが終わったあと、彼女は父親の車を出してもらい近くの100円ショップやドラッグストアで近々に必要な物を買い出しに行った。そのあと二人で軽く食事をする。近くにある定食屋でそばを食べる。父親と二人だけで外食するのは、いつ以来だろうと彼女はふと思った。
 「それじゃあ、父さんはそろそろ帰るよ」夕方頃に父親はそう言った。「何か困ったことがあったら、いつでも連絡するんだぞ」
 「うん」
 「大学、楽しみながら勉強もしっかりな」
 「うん」
 「母さんもそのうち来ると思うから」
 「うん」
 父親は駐車場に行き、彼女もついていく。
 「ねえ」車に乗り込もうとする父親に、彼女は話しかける。
 「今日はありがとう」引っ越しの手伝いの感謝を、彼女は言った。
 「おう。頑張ってな」
 「うん」
 彼女は頷いた後も、父親の目を見る。そういえば、こんなにゆっくり父親と視線を合わせたのはいつ以来だろう。彼女は思った。
 「ありがとう、お父さん」彼女は言った。

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