世界五分前仮説
世界五分前仮説という思考実験の類がある。
文字通り世界は五分前に作られたのではないかという仮説だ。
この仮説に対して、五分より前の記憶があるからそんなことはありえない、という反論は意味を持たない。
なぜなら、私達の記憶も作られたものだと仮定するからだ。
私達は昨日のことを実際に体験したと思い込んでいる。
世界は 何千年何億年も前から存在 しているような見かけで作られている。
でもそれらは、実際は五分前に唐突に作られたものにすぎない。
世界五分前仮説はその反証が困難だ。
なぜなら、私達が記憶していることは、本当にあったことなのか、証明できないからだ。過去は常に実態がない。
そんな馬鹿な。くだらない思考実験だ。そう一蹴することもできる。
しかし、世界五分前仮説は私達に重要な示唆を与えてくれる。
それは、人にとって記憶は非常に重要で、同時に非常に不確かなものであるということだ。
記憶によって私達は世界や自分を認知している。
記憶が私達に学びや価値観を与えてくれる。
たとえそれらが五分前に捏造されたものであったとしても、私達はその記憶によって長い時間を感じることができる。
もしも記憶を、例えばデータをパソコンから別のパソコンに移すように、足したり消したりすることができたらどうなるだろう。私達は一瞬で世界の認識を変えることができるのではないだろうか。
新しい記憶を埋め込まれたら、私達の世界は五分前と全く違うものになるのではないだろうか。
20xx年、人類は記憶の外部操作を可能にした。脳内の記憶を消したり追加することが可能となった。
「削除した後の記憶は復元できませんがよろしいでしょうか?」
エディットメモリーカンパニーの社員はそう言った。
「ああ、かまわないよ」私は言った。
「お子様や奥様の記憶も消えてしまいますが?」社員は念を押して聞いた。
「妻と子を事故で亡くして気づいたんだ。記憶は残酷なものだって。毎朝、妻と子がいた日々を思い出してしまう。でももうここに妻と子はいない。妻と過ごした日々や、子供が成長していった記憶。それを思い出すことに、私はもう耐えられないよ。きっとこの記憶を持っていたら、この先も、もしも妻と子が生きていたらと思ってしまう。辛いから、いっそ忘れてしまいたい。私に妻や子は元々いなかったと」
「差し出がましいようですが、たとえひと時でもご家族と過ごせた記憶は非常に尊いものだと思います。それが永久に存在しなかったことになってしまいますよ」社員は言った。
「いいさ。どうせこの妻子の記憶も、過去の私が埋め込んだ、捏造した記憶と思えばいいんだからね」