今、泣いている人のために、何かをできるということ

オムニバス(エッセイ風小説)

今、泣いている人のために

理屈ではないもの

 今、泣いている人のために、理屈を超えて、自分の意思であるとか言葉であるとか時間であるとか行動であるとか、そういうものを傾けることが大切だと、私は思う。

 理屈とか、大義とか、世界の流れとか、そういうものを超えて、
 今、泣いている人のために、
 今、悲しんでいる人のために、
 今、痛みを伴っている人のために、
 人が人のために動けることは、尊いことだと、私は思う。

 そこに整然とした理屈はないかもしれない。頭のいい仕組みも、思慮深い洞察も、賛同を得られる大義も、そこにはないかもしれない。

 けれど、自分の大切な人や、大切なものや、大切な価値観が、何かによって侵害され、傷つけられたとき、立ち上がることは、大切なのではないだろうか。

当事者であるということ

 頭のいい人が会議室で決めることが、いつでも正しいとは限らない。
 長期的に見れば正しいことが、今のこの瞬間に誰かを傷つけることもある。
 私達はそれぞれの人生を生きている。
 だから時折、わがままになってもいいのではないかと思う。
 自分を犠牲にすることが、正しいこととは限らないし、仮に正しいとしても、誰かの正しさのために私達は生きているわけでもないだろう。

 いつだって涙を流すのは当事者なのだ。
 そして偉い場所で偉い人が決めたことは、往々にして当事者にとって慰めにもならないことがある。

 今、ここで、大切な人が泣いていたら、私達は正しさを投げ出し、もっと別の理由で自分の身体を動かさないといけないかもしれないのだ。

弱い私

 弱い立場になった人しか、弱い立場での悲しみはわからないかもしれない。
 当事者の苦しみは、当事者でしかわからないかもしれない。

 悲しみとはこういうものなのだ。
 苦しみとはこういうものなのだ。
 いくら高い場所からそう諭されても、それは今ここにいる人には響かないかもしれない。

 今この瞬間に感じる悲しみは、痛みは、苦しみは、間違いのないものだからだ。

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