子供に腹が立つのではなく親に腹が立つのだ

オムニバス(エッセイ風小説)

子供に腹を立てているわけではない

少子化のこの世の中で

 多くの大人は子供の言動に腹を立てているわけではなく、親の子供への接し方に疑問を持っているのではないか。私は常々そう思う。

 例えば電車で子供が騒がしくて、腹を立てる大人がいたとする。
 子育て世代になんとも非寛容だと世の中は批判する。だから日本の少子化は止まらないのだと評論家は批判する。
 けれど、その人の腹が立ったのは、騒いでいる子供ではなくその子供を注意もせずに(あるいは気持ちがこもっていない声を軽くかけるだけで)スマホをいじっている親に対してなのではないだろうか。
 もちろん全部のシチュエーションがそうとは言わないが。

親の接し方

 例えば電車や飲食店、公共の場で子供が騒ぐ。
 そのとき、周囲に対して親が申し訳なさそうにして、子供に対して子供の目を見て真剣に叱っていたら、周囲の大人はもっと温かくその親子を見ることができるのではないだろうか。

 けれど例えば、子供が騒いでいるときに、「静かにしなさ~い」と建前だけいいながら、視線はスマホに向いていたら、やっぱり多くの人は(実際の因果関係がなかったとしても)「この親にしてこの子供」と感じてしまうのではないだろうか。

子育ての再現性

 子育てというものはきっと難しい。百点の子育てはないし、仮に百点の子育てがあったとしても、子供が百点に育つわけではない。そもそも百点の子供ってなんだろう。

 だから多くの大人は、子供を一人でも育てれば自分が「親」になった気がして、「子育ての先生」になった気がする。

 スマホを見ながら子供をほったらかしても自分は「親」だと自己肯定できるし、
 そんなものは子供と向き合っていないと周囲は「子育て評論」ができる。

 何が正解かわからない。
 電車で騒いでいる子供が、本人の持って生まれた気質のせいなのか、親の日々の接し方の表れなのか、それはわからない。

 けれど、子育てに正解はないから、ある種の姿勢のようなものを人は求める。

 例えば子供と向き合うこととか、
 例えば子育てをする親が子育てをしない誰かの権利に目を向けるとか。

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