おじいちゃんとおばあちゃんはおもちゃを買ってくれる
プレゼントをくれる祖父母
子供の頃、おじいちゃんとおばあちゃんはよく孫である私におもちゃを買ってくれた。
それは母の実家に帰省した盆や正月でもあれば、なんでもない週末でもあった。
私と母が祖父母の家に行く。家で少しゆっくりして、そのあと出かける。
ショッピングモールで外食をして、隣接したおもちゃ売り場で「何か欲しいものある?」と聞いてくれる。欲しいおもちゃを選んで、買ってもらって、おもちゃ売り場を出たところで私達親子と祖父母は解散。それぞれ用事(例えば食料品の買い出しとか)を済ませて家に帰る。
そういう一日が、小学生の頃はよくあった。
私の家庭と家計
母と父は私に際限なく物を買い与えることを好まなかった。
ちょっとした小物は別だが、一般的にプレゼントと言われるようなおもちゃや遊具の類は誕生日かクリスマス。
年二回の欲しい物が手に入るチャンスに、幼い頃の私はよく計画を立てていた。誕生日にこれを頼んでクリスマスにサンタさんにはこれを頼もうと。
外食だって頻繁にはしなかった。私はハンバーガーが好きだったが、外でハンバーガーを食べる回数より、家で和食や野菜を食べるよう勧められる回数のほうが多かった気がする。
非日常な日常
けれど祖父母と出かけたときは、何を買うか何を食べるか、私はあまり制限されなかった。
普段なら誕生日にしか買ってもらえないようなおもちゃを祖父母は私に二つ返事で買ってくれた。そしてそのことに関して母親は私に特に何も言わなかった。(もちろん祖父母、つまり自分の親に「ありがとう」は言っていた)
そんな非日常さを幼い頃の私は感じていた。
持続可能性
祖父母と出かけ、好きな物を買ってもらう。
それは私にとって嬉しい出来事であり、何とも言えないバランスを求めらている時間でもある気がした。
私に祖父母が好きな物を買ってくれるのは、私が孫で、何かをしてあげたいと思ってくれているから。それはつまり、祖父母の愛情であり気分なのだ。
私がノートや鉛筆を欲しいと言えば、祖父母は「この子は遠慮しているのだろうか」「何か我慢しているのだろうか」と思われるかもしれない。実際私もなんでも買ってもらえるなら、他の物がいい。
けれどとっても高価な物を頼めば、今度から私は何も買ってもらえないかもしれない。
だから私はちょうど良い、けれど誕生日にしか買ってもらえないような、そんなプレゼントを選ぶ。
持続可能な状態で利益を最大化する。
幼い頃の私は、そんな言葉を知らなくても、そんなことを無意識にやっていたのだと思う。
それが不意の出来事であるために
祖父母と出かけたとき、「今日も何かを買ってもらえるんじゃないか」そんな淡い期待をしていたことを覚えている。
「○○買って」とねだるほど、子供の頃の私は無邪気ではなかった。心のどこかで、「お行儀よく謙虚に」しているほうが、おもちゃを買ってもらえる気がした。
おもちゃ売り場を通りかかったとき、「何か見てみようか?」「欲しいものある?」と祖父母が聞く。そのとき私は予想していても予想していなかったように「え、いいの?」と反応する。それが求められている気がした。
子供の社会性
孫が祖父母から欲しい物を買ってもらう。
それは子供が幼い頃に経験する「空気を読む」という機会の一つだ。
私達は、大人になっていく。