ハムスターの葬儀に行く

オムニバス(エッセイ風小説)

ハムスターの葬儀

ハムスターの最期

 ハムスターという小さな命であっても、その最期を例えばどこかの土に埋めることは素人では難しい。私有地でなければ違法であるし、私有地であっても例えば野良猫が掘り返すなどの可能性があり、土に還ることは容易ではない。
 多くの場合、ハムスターの最期に、飼い主はペット斎場を利用することになる。

ペット斎場へ行く

 斎場は思ったよりも山奥にあった。
 全ての斎場がそうであるわけではもちろんないが、ペット斎場というニッチな施設は立地が良い所にあるとは限らない。

 穏やかな農道を通り山道へと入る。
 さらに奥へと車を走らせると、斎場はこちらという看板がある。
 看板が指し示す方へ行けば、今度は車同士が離合できない幅の道。
 車道に飛び出てきている木の枝に注意しながら、私は車を走らせる。

 ペット斎場は私の家から車で行ける範囲で複数個所あった。
 その中で私がこの斎場にしたのは、比較的距離が近かった点と、火葬場・納骨堂・墓地と必要な施設がそろっていたからだ。

 ペット斎場というものは人の斎場と比べればはるかにニーズは少なく、施設の数も限られる。
 墓地だけ有して火葬は別の斎場に委託しているところも少なくない。

 しかし私は飼っていたハムスターの最期を、家族で見送りたかった。
 このため、私は同じ敷地内に火葬場・納骨堂・墓地がそろっている斎場を選んだ。

ペットの葬儀

 比較的設備が整ったペット斎場ではあるが、規模は当然ながら人のそれよりはるかに小さい。
 駐車場は数台止めれば満車であり、広くはない。敷地内には火葬場や受付など複数の建物が点在するが、どれもこじんまりとしていた。

 私達は受付にて予約していた旨を告げ、簡単な説明を受ける。
 斎場にはこれまたこじんまりとした祭壇があった。

 私達は息を引き取ったハムスターを祭壇に寝かせる。
 普段財布の紐が固い私が、今この子を寝かせるためだけに小さな布団を買ったのはなぜだろう。葬儀が行われる小一時間しか使わないのに、私は白くて柔らかい、小さな布団を買い、祭壇に敷き、この子を寝かせた。
 しばらくして、物腰が柔らかい僧侶がこのこじんまりとした空間に訪れる。お経を唱える様子は、人間の葬儀と変わらない雰囲気があった。厳かで、切なくて、何を言っていのるかわからなくて、不思議な時間。素人にはわからないお経の中でも、この子の名前を言われたことはわかった。それが妙に不自然で、おかしくて、これをあとから家族で話して笑うのかなと、私は思った。

 ああ、本当にこの子とはお別れなんだな。

 僧侶がお経を唱える中、椅子に座ってうつむいて、私はそう思った。
 子供の経験として、ペットを育てることはいいこと。私も夫もそう思って、娘のハムスターを飼いたいという希望を承諾した。
 ちゃんと自分で世話をするのよ。
 多くの親がそうであるように、私は娘にそう言った。そういうベタなことを言えるのも、幸せなことなのだと私は思う。けれど、やっぱり何かと気になるものだ。気づいたら私も一緒に世話をしていて、もちろん、愛着だって湧く。小さく無邪気で平和そうで、私達の家族であるハムスターは、たまらなく可愛かった。

ペットの火葬

 火葬場もこれまたこじんまりとしていたが、祭壇と比べると幾分しっかりとした建物という印象を受けた。私達はハムスターを台に寝かせる。そしてこの子がよく食べていたペレットや、好きだった果物を一緒に入れてあげる。あまり燃えにくい物やプラスチックなどは入れないようにと張り紙がしてあり、受付でもその旨は言われた。しかし私達が持ってきたものは少しの食べ物と齧り木だけだったので、特に支障はなかった。生前、この子がよく齧っていた齧り木。

 火葬は一時間ほどの待ち時間があった。私達は敷地内をうろうろしながら時間を潰した。ペットの墓参りに来た家族と数組すれ違う。納骨堂を見てみれば、やはり供養されているのは犬や猫が多い。しかしハムスターも決して少なくなく、中には同じ納骨スペースに複数の骨壺があって、多頭飼いをしていたのかなと思った。

 火葬が終わり、私達は遺骨を骨壺に入れていく。骨がとても小さく細いから、箸ではなくピンセットでつまんでいく。骨は糸のように細く、本当に小さな命だったんだなと思う。頑張って生きていたんだなと思う。そしてもう、この子には会えないんだなと思う。今日はもう何回も何回も、「この子にはもう会えないんだな」と私は思ってしまう。それが本当のことなのだと頭ではわかっているのだけれど、まだ実感がない。実感がないという感覚は、こういうことなのかなと思う。

納骨

 私達は家族で話し合い、この骨壺を一旦は家に持ち帰ることにした。
 納骨堂にて供養する選択肢もあったが、まだこの子と離れるには心が追いついていないようだ。
 四十九日や然るべき時期に、また私達はこの子の納骨や埋葬を考えることになる。そのときまでは、少しだけ、この子とまだ居たいなと、そう思った。

 もうここにはいないこの子と、もう少しだけ、ここに居たいなと私は思った。

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