「星野君の二塁打」をどのように考えるか
「星野君の二塁打」の教訓・示唆
「星野君の二塁打」という物語は、「実力主義で生きる」のか「社会と協調して生きる」のかの選択が問われていると思う。
要するに、監督の指示を無視してでもチームを勝利に導いた「強い星野君」として生きるのか、チームの勝利の責任は監督に預け、自身は与えられた仕事を全うする「協調性のある星野君」として生きるのか。自分だったらどちらの選択をするのかということだ。
これは選択の問題であって、どちらが正しいという問題ではないと思う。どちらの生き方にも、良い面と悪い面がある。
「星野君の二塁打」の思考実験
「星野君の二塁打」について議論する場合、大きくは二つの意見があるだろう。
一つは「星野君のおかげチームは勝利したのだから、次の試合に星野君が出れないのはおかしい」とする意見だ。
もう一つは、「いずれにせよ星野君は指示を無視したのだから、次の試合に出れないのは気の毒だが仕方ない」とする意見だ。
そしてここで一つ重要な仮定を挙げてみたい。
仮に星野君が指示を無視してバントをせず、しかしヒットも打てず、結果チームが負けたら次の試合に星野君が出れないのはしょうがないだろうか。
この場合、「指示も無視して結果も出せていないのだから、次の試合に出れなくても仕方ない」と考える人は多いのではないだろうか。
つまり、「星野君の二塁打」の議論は星野君が「結果を残せた」ことが前提条件となっていることがわかるだろう。
実力主義の残酷さ
人は結果を残せるときもあれば残せないときもある。人は誰しも完璧な存在ではないからだ。
だからこそ、「星野君の二塁打」は人の生き方について考えさせられる。
バントの指示を無視してチームを勝利させたあのときの星野君のように、自分が思う正しさで結果を残せればそれに越したことはない。
しかし長い人生、必ずしも結果を残せるときばかりではない。
(例えば三振をするなど)指示を無視して結果も残せなかったら星野君の立場はなんとも悲惨なものになっていただろう。
それが良い・悪いとは言わない。それも人生の選択肢の一つだ。「悔いはない」と思えれば問題はない。
けれど、人によっては「こんなことになるなら素直にバントをしておけばよかった」と後悔する人もいるかもしれない。それで次の試合出られなかったとき、「もったいないことをした」と思う人もいるかもしれない。
要するに、自分にとって満足できる人生はどのような人生なのかを見つめる必要があるということだ。
ヒットを打てても三振しても、自分が正しいと思えるなら監督の指示を無視すればいい。
結果を残せなかったときも含めて自分の人生に責任を持てるなら、実力主義の社会で生きることはなんら問題はないのだ。自分の力や信念を突き詰めることは、人生の満足度につながる。
一方で、「確かに状況的にバントのほうが得策だ」と思えるならバントをすればいい。
別に人の指示に従うことは、カッコ悪いことでも思考停止していることでもない。
人は社会の中で生き、人に助けられて生きる。自分のコミュニティの中で役割を分担し生きることは、かけがえのない生き方の一つで、それはつまらない生き方ではない。
大切なのは自分の生き方を主体的に選ぶということなのだ。