第1話「坂の多い町で」
郷愁としての紫陽花
小学校の頃の通学路で僕はよく紫陽花を見かけた。
僕の通っていた小学校の近くには、誰が住んでいるかわからないけれど豪邸があって、その豪邸を僕は六年間毎日のように目にした。豪邸は斜面に位置する広い敷地に建っていて、家以上に庭が広かったことを覚えている。通学路はその豪邸の裏側を通るようになっていて、結局僕はその豪邸を正面から見ることがないまま小学校を卒業し、その通学路を歩くことはなくなった。
豪邸の裏の塀に、たくさんの立派な紫陽花が梅雨時期に咲いていたことを覚えている。
一つ一つが非常に大きくて綺麗な紫陽花で、僕は傘を差しながらその紫陽花をよく登下校のときに眺めていた。
だから僕は雨が嫌いじゃないし、梅雨が嫌いではない。
灰色の薄暗い空の下で咲く紫陽花は、華美ではないが淡く美しい。
雨が降る音と、雨が地面から溝に流れる音。傘で遮られた視界と、その傘からはみ出て濡れるランドセル。蒸し暑い長靴。
梅雨が来るたびに、僕はそういったものを思い出す。
坂道が多い町
坂道と階段の多い町で育った僕は、平坦で整然とした歩道を歩く優雅な登下校に憧れていた。
小学校の通学路の坂道は幅が狭く、石畳の階段はゴツゴツと不均一だった。
僕はそんな通学路を上ったり下ったりしながら六年間を過ごした。
学校から家に帰る道は、ひたすら階段を下りていく。途中で豪邸の裏を通り、そこで少し平坦な道と道路に出る。僕の家はさらにそこからまっすぐ歩き、また坂道を下っていく。
けれどその道をまっすぐ行かずに左に曲がると、すぐに七軒ほどの戸建てが並んだ小規模の住宅地がある。住宅地の中心は簡易的なロータリーのようになっており、それを囲むように各家が建っていた。
その住宅地に、クラスの女の子がよく出入りをしていた。高橋という名の女の子だ。
僕と高橋はものすごく仲が良かったわけではないけれど、男女のグループで遊ぶときは一緒のグループになるくらいの仲の良さではあった。友達みんなで帰るとき、高橋は時々その住宅地の一番奥に位置する家に入っていった。
しかし高橋の家はそこではなくて、本来は坂道をまっすぐ下った先にあるマンションだった。
なぜ自分の家ではなくあの白い家(高橋の出入りしていたその家は、外壁が白かった)に行くのか。僕や友達は何度か聞いたが高橋はニコっとするだけで答えはしなかった。
次第に僕達は高橋がその白い家に入っていく理由を聞くのをやめた。追求したところで高橋が好意的に話してくれないであろうことは、小学生でもなんとなくわかった。