老害は自分が老害と気づかない

オムニバス(エッセイ風小説)

老害は自分が老害だと気づかない

 老害は自分が老害だと気づかない。
 というか、自分が老害だと気づけなくなったときが老害の始まりと言っていい。

 考えが凝り固まり、プライドが高くなり、自分を客観視できない。
 世代間の考えの違いを理解できず、理解しようとも思わない。
 どこかで「自分が正しい」と固く信じているから、人の意見を聞き入れない。
 周りは飽きれ、目上に対しての言いにくさもあって、多くの人はそういう人間を放置する。
 放置された側は自分が放置されていることも気づかない。
 今すぐに感じる痛みはないから、自分が正しいという思い込みは強まっていく。

 老害というのはある意味で茹でガエルにも似ている。
 無能な上司に、頑固な年寄りに、誰も真っ向から接したいとは思わない。
 放っておかれ流されて、自分の間違いに気づく機会を失う。
 老害は自分が周りから「老害と思われている」ということに気づかないまま、どんどん周りと時代から取り残されていく。
 そして気づいたときには、誰も話をまともに聞いてくれない、取り返しのつかない状態になっている。「はいはい、そうなんですね」と、誰からも流されるようにしか接してもらえない。身体が元気であっても、老害のそれは例えるならコミュニケーションにおいて自立しておらず、介護を受けているようなものだ。

 人は身体が不自由になると日常生活のことができなくなるから、介護を受ける。それは仕方がないことだ。
 同じように、人は考えが凝り固まり他者とのコミュニケーションが不自由になると、周りが気を遣ってその人にうわべだけ合わせてあげるようになる。

 身体も心も、運動は大切だ。
 他者とコミュニケーションを取ることは、ある意味で心の運動なのだ。
 相手の話を聞き、自分の価値観を疑い、新しい考えや新しい時代を知る。
 その度に自分が当たり前と思っていた考えや自分が持っているプライドを一つ手放す。
 一つプライドを手放し心のスペースが空いたなら、今度はそこに「謙虚さ」を置くようにする。
 その謙虚さもいつかはまたくだらないプライドに変わっていくから、その際はまた手放す。

 私達はそのようにして、コミュニケーションが長く自立していられるようにしたいものだ。

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