言わなきゃわからない人は言ってもわからない

オムニバス(エッセイ風小説)

言わなきゃわからない人は言ってもわからない

言ってもどうせわからない

 言わないとわからない人は、言ってもわからない。

 この残酷な言葉は、ある意味で、一つの真理だと思う。

 なぜこの言葉が残酷なのかと言えば、この言葉が、人を切り捨てる言葉だからだ。
 「言ってもどうせわからないでしょ」と、人と言葉を交わすことなく人を切り捨てる、拒絶の言葉だからだ。

 一方で、この言葉は人の本質を(一部かもしれないが)表しているとも思う。
 つまり人は、言って伝わる情報を理解してほしいわけではない。
 言われなくても自発的にそう感じ考える価値観を共有したいのだ。

価値観の共有

 例えばここにティーカップがある。
 私とパートナーは紅茶を飲んでいる、日曜日の午後の昼下がり。
 私がここで、「今日は二人が出会った記念日よ」と言うのは簡単だ。
 パートナーは今日がその日であることを思い出し、今日が記念日であるという「情報」は二人の間ですぐに共有できる。

 けれど、それはきっと私が求めていることではない。
 きっと私が共有したいのは、二人の出会いと流れた月日に尊さを見出せることなのだ。そしてその象徴の一つに、きっと記念日がある。

 二人が出会えたというささやかな奇跡。
 いろいろなことがあったけれど、こうして今も同じ時間を過ごせている。
 誰かと一緒にいることは、尊いことだ。だから今日という日は、そんな幸福を改めて感じさせてくれる特別な日。
 そんなふうに思える心の機微を共有できたのなら、それは幸せなことだ。

 私の話はこれくらいにしよう。
 要するに、人は時として「言わなくてもわかってほしい」と思うということだ。

言わなくてもわかる

 だから人は、しばしば「言えばわかる」ということに価値を置かないときがある。
 「言えばわかる」ではなく「言わなくてもわかる」が重要な局面がある。

 時折、「言ってくれればわかるのに」「言ってくれなきゃわからない」と言う人がいる。
 その言い分はわかるし、そうなのだろうとも思う。

 けれど、「言わなくてもわかってほしい」人からしたら、「言わないと気づけないこと」「(言われる前に)理解しようとしていないこと」が問題なのだ。

残酷な言葉

 言わなきゃわからない人は言ってもわからない。
 これは残酷な言葉だ。この言葉の残酷さは、自分に向けられたときほど感じるだろう。

 「あの人は言ってもわからない」そう評されて誰からも何も言ってもらえない。
 それは孤独であり、悲しいことだ。


 だから私達はその両端で心が揺れ動く。
 どうせ言ってもわからないだろうと人を切り捨てる気持ちと、言ってほしいし他者とわかり合いたいという気持ち。
 私達は人と人は違う価値観を持った別々の存在なのだと知りながら、心のどこかで、言葉を尽くせばわかり合えるという期待も持っている。その二つの気持ちを行ったり来たりしながら生きているのかもしれない。

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