分かり合えない人と分かり合うことについて

オムニバス(エッセイ風小説)

わかりあえない人ととわかりあうことについて

あなたとわかりあいたい

 人と人とがわかりあうことは心底難しくて、それは極論無理なことなのかもしれない。

 けれど私達は「それでもわかりあいたい誰か」がいて、それは幸せなことだ。

 他人同士がわかりあうことは難しい。
 けれど「あなた」とはわかりあいたい。
 そう思えることは苦しくも恵まれていることだ。

わかりあいたい人との出会い

 人と人とがわかりあうことは難しい。
 なぜなら私達は別々の考えを持った別々の生き物だからだ。

 それでも私達は「わかりあいたい誰か」と出会う。

 自分と同じ考えだったらいいな。
 あなたの考えに共感できたらいいな。

 そのように思う大切な人と出会えることがある。

同調とすれ違いの中で一緒に生きること

 相手を完全に理解することはできなくても、
 私を完全に理解してもらうことはできなくても、
 一緒に時間を尽くすことはできるかもしれない。

 わかりあえたと思えたら意見が違って、
 意見が違ったと思ったら共感できて、

 同調とすれ違いの繰り返しの中で一緒に生きることはできるかもしれない。

わかりあおうとしながら

 人とわかりあうことはできなくても、
 わかりあおうとしながら時間を一緒に過ごすことはできる。

 そうやって人生を送っていけば、
 少なくとも「わかりあえなかった」と決めつけずに済むかもしれない。
 少なくとも「わかりあえたときもあった」と思えるかもしれない。

人生の最期に

 人と人とが理解し合うことは難しい。
 けれど例えば自分が死ぬとき、
 誰かと完全に理解し合えなくても、
 少しは共感し合えたなと思えれば、
 幾分人生の最期としては穏やかかもしれない。

わかりあいたいと思える大切な人

 私達は他者と部分的にでもわかりあうためには長い時間が必要だ。
 完全にわかりあうことはできなくても、
 「わかりあいたい」と試行錯誤するためには時間が必要だ。

 そして人生の時間は限られている。
 私は私の、あなたはあなたの、
 「わかりあいと思える大切な人」に時間を使うべきだ。

私は私

 世の中にはたくさんの人がいて、たくさんの考え方がある。
 そして私達の人生の時間は限られている。

 私達は他者を完全に理解はできない人生の中で、
 それでも「わかりあいたい」と思える誰かと出会う。

 そういう人と一緒に時間を過ごしたらいい。
 そしてそうでない人とわかりあえなくても、
 「私は私」と思えたら、人生は幾分前に進むかもしれない。

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