多様性を重んじて多様性を排除する社会
多様性とは人それぞれの違いのことだ。
多様性を尊重する社会とは、人それぞれの違いを尊重する社会のことだ。
多様性を尊重する社会。
それはとても尊いことであり、同時に、履き違えればとても幼稚な社会だ。
私の違いを認めろと、他人の個性を否定する。
私の個性を尊重しろと、他者の在り方を否定する。
誰かの違いを通すために、誰かの違いを否定する。
多様性が別の多様性を攻撃する。
多様性を重んじるあまり、多様性を排除する社会。
誰もが「他人は他人」と放っておくことができない。
誰もが「自分は自分」と達観することができない。
多様性のある社会について誰もが口を出し、「こうあるべき社会」を語る。
何かが許されるために、それを妨げる別の何かを否定する。
ある人が赤と言えば、青の人が傷つくと言われる。
ある人が青と言えば、赤の人が傷つくと言われる。
だから紫と言えば、赤か青かはっきりしろと言われる。
多様性を認めるためには、他者が多様性を受け入れないことを受け入れないといけない。
それはおおらかな世界かもしれないし、他者に無関心な世界かもしれない。
多様性の矛盾。
多様性を認めることは、ある意味で残酷だ。
人と人とが違うことを認めること。それは私とあなたが一緒でないことを認めることだ。
私達はお互いが違うことを認めなければならない。
お互いが異なるという点は一緒なのだと気づかなければならない。
私達は、互いが異なるという点はみんな一緒なのだ。
大切なのは、誰もが赤を語れるし青を語れることなのだ。紫を選んだっていい。
そしてたぶん、あなたの赤と私の赤も違うのだろう。それらがグラデーションの中に存在し、一致することはない。
多様性があること。
それは他者の多様性を否定しないこと。その中には、多様性を受け入れないという多様性も含まれる。他人の権利を奪わない範囲で、私達は多様でいられる。