代えのきく存在であることの虚しさと、代えのきかない存在であるということ

オムニバス(エッセイ風小説)

代えのきく存在であることの虚しさ

代えのきく人

 自分が代えのきく存在であることは、至極当然で、すごく虚しいものだ。

 社会や会社というものは、そもそも特定の誰かがいなくても安定するような構造をとる。
 だから社会で生きる人は、会社で働く人は、基本的に代えがきいてしまう。

 代えがきくということは、気楽なことでもある。
 常に「自分じゃないと」と求められるプレッシャーから解放される。
 それは一種の自由でもある。

 けれど人は、自分が代えのきかない存在でありたいと思ってしまうものだ。

 自分にならできる、自分にしかできないこと。
 そういうことで社会とつながりたい。そう思ってしまうものだ。

命の意味

 自分が代えのきかない存在であること。
 自分にしかできないことをすること。
 そこに生きている意味を、自分の命を感じるときがある。

 自分にしかできない考え。
 自分にしか言えない言葉。
 自分にしか奏でられない音楽。
 自分にしか作れない物。
 私達は、自分にしかできない物事を通して、自分の生きている意味のようなものを感じることがある。
 私達は必要とされているのだと思う。

 誰にでもできること。
 誰かでもいいこと。
 私じゃなくてもいいこと。
 そういうことに、私達はどうやって自分の命の尊厳のようなものを感じられるというのだろうか。

大人の考え

 けれど、多くの人は自分にしかできないことで生きているわけではない。
 自分にしかできないことで社会とか人類に貢献しているのはほんの一握りで、多くの人は取るに足らないことの積み重ねで人生を築いている。

 だから自分にしかできないことに価値を見出すことは、もしかしたら自分を苦しめているだけかもしれない。
 だからもっと、大人の考えもできるかもしれない。

 例えば私達は、同じ人間など一人もいない。
 誰でもできることをやっていたって、私は私しかいない。
 だから私はそれで充分だと、思える場合だってあるかもしれない。

私の考え

 そういう考えが自分に馴染む人もいれば、納得させるための屁理屈だと感じる人もいるだろう。
 きっとどちらも間違っていない。

 自分にしかできないことを追い求める人は、その心に嘘をつく必要もないだろう。

 自分にしかできないことを追い求める人生も、
 誰にでもできることで緩やかに生きる人生も、
 どちらも一つしかない命だ。

 いずれにしても、自分の考えに嘘をつかないこと。
 誰かの考えに自分を無理に納得させても、それは誰かの操り人形か、誰かのような人生でしかない。

 自分の素直な感覚・考えで生きることが、自分にとって、代えのきかない人生を生きる第一歩なのだから。

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