勧善懲悪(かんぜんちょうあく)とは
勧善懲悪とは?
勧善懲悪(かんぜんちょうあく)とは、正義が勝ち悪が滅ぶという考え、およびそういった展開を持つ物語のジャンルのことである。
誰が見ても正しい絶対的な正義と、救いようのないクズ野郎による絶対的な悪。これらが迷いなく存分に戦い、最終的には正義が勝つ物語。
正義が悪に屈しない熱い展開と、理不尽さに打ち勝つ正しさの爽快感が人を魅了する。
勧善懲悪は、人が昔から求める物語の一つの形と言えるだろう。
勧善懲悪の気持ち悪さ
一方で、勧善懲悪という思想や物語に魅了されることに、一種の気持ち悪さを感じる人もいる。
要するに、「世の中はそんなに単純なものじゃない」ということだ。
正義と対立するのは悪なのだろうか。
勧善懲悪への批判は、このようなメッセージを投げ掛ける。
ある人にはある人の、別の人には別の人の「正義」や「正しさ」がある。
それが衝突したとき、どちらかを「悪」と誰が決めることができるだろう。
また自身の正しさを力で貫くことは正しいことなのだろうか。
これもまた考えさせられる。
力で相手の考えをねじ伏せることは正義なのだろうか。
このように、世の中は勧善懲悪で語れるほどシンプルではないし、だとしたら勧善懲悪の物語など気持ちが悪い綺麗事だとも言える。
勧善懲悪という本能
しかしもう少し掘り下げて考えてみたい。
私達は心のどこかで勧善懲悪な世界を求めているのではないだろうか。
なんだかんだ言って、主人公が勝つ物語は多いし、ハッピーエンドの物語は多い。
敵が倒されれば爽快感を感じるし、正しさが理不尽さに屈しないのは希望が持てる。
きっと私達は、自分達の生きる権利を守る本能があるのではないだろうか。
相手の考えもまた別の正義かもしれない。
しかし相手の考えによって自分の権利が理不尽に侵されるとするならば、それが「正義」か「悪」かの議論は置いておいて、抵抗をしなければならない。
自分の命が危険に晒されるとき、私達は綺麗事を言っている暇などない。
このように考えると、勧善懲悪は綺麗事ではなく、むしろ複雑な世界を生き残る上での現実的な教訓とも言える。
だから勧善懲悪を求めすぎるのも気持ち悪いが、勧善懲悪を否定しすぎるのも気持ちが悪いことかもしれない。
私達は相手を「悪」と決めつけてはいけない。その人にはその人なりの正義がある。
しかし、自分達が生きるために選択をしないといけないこともある。自分の権利を守るため、自分の思想を守るために。「相手も正義かもしれないな」と座って考えている暇がいつもあるとは限らない。
新しい顔で元気百倍になったあいつは、絶対パンチを浴びせてくる。あのパンチを食らえばUFOは壊れ、確実に私は山の向こうに吹っ飛ばされる。だから最後まで抵抗せざるをえない。負けることはわかっていても、力に屈しないこともまた正義なのだ。