世の中は適当だから適当に生きてもいいということ

オムニバス(エッセイ風小説)

世の中は適当だからある程度適当に生きてもいいということ

 世の中には適当なところがあるから、肩の力を抜いて、多少適当に生きてみたっていい。

 世の中の適当なところとは、不合理だとか理不尽だとか不平等だとかそういうことだ。
 世界は正しく優しくありたいと思いながら、不合理で理不尽で不平等で、ダラダラと進んでいる。

 そういう世界にうんざりすることもあれば、それが自分の身の丈にあっているような気もする。
 結局人は完璧ではないから、完璧でない世界が気楽な気もするのだ。

 私達は世界に正しさを求める。優しさとか誠実さを求める。
 けれどそういう願いが簡単にひっくり返されることもある。
 物事が理不尽に決まりそれに個人が振り回される。

 世の中を変えるために個人の人生をなげうっても、変化がないか手応えのない微かな変化にとどまることがある。
 私達はそういう世界の中で、悩んだり呆れたりしながら生きている。

 でも、それは一つの側面かもしれない。
 あるとき人は、世界がこの上なく美しく愛おしく、かけがえのないものに感じることもある。
 多面的な世界の中で私達の心もまた多面的に感じ考えている。

 だから世の中の適当さに呆れるばかりでなく、その適当さを自分の心を軽くすることに使ってもいいのだと思う。

 私達は生きていて、この世界と密接につながっている。
 社会の中で生きて、他者との関係の中で生きている。
 けれど私達は個でもある。私達は自由でもあるし、不自由でもある。
 私達は生きていく中で、その自由さや不自由さに戸惑う。

 疲れたら休んでもいいし、人間関係のしがらみを終わらせてもいいし、今までと違うことをやってみてもいい。
 それは誠実ではないかもしれないし、責任がないことだと他人から言われるかもしれない。
 けれど、世界は適当で、私達人間も適当な存在なのだ。

 私達は生きている。
 そして生き続けるということは、緩やかに自分をとらえるとうことでもあるのだ。

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました