第5話「母がいない子①」
愛の喜びという曲名を初めて知ったのは、ウミちゃんと話しているときだった。フリッツ・クライスラーというバイオリニストが作曲した曲。名前は知らなくても、有名な曲だからメロディーを聞いたことがある人もいるかもしれない。
小さい頃からピアノを習っているウミちゃんから、私はこの曲名を教えてもらった。
それ以来私は、ウミちゃんに時々クラシックのことを教えてもらう。
「ねぇねぇミツキちゃん、夏休みなんだから遊びに行こうよ」
「行かない」
「今度モール行こうよモール」
「行かない」
いつもの長椅子で本を読んでいるミツキちゃんに、ウミちゃんは話しかける。
小学校五年生のウミちゃんにとって、ミツキちゃんはお姉ちゃんのような存在なのだろう。
「ねぇミツキちゃん、モールにクレープ食べに行こうよクレープ。ミツキちゃん甘い物好きでしょ~」
「甘いのは好きだけど人混みは嫌。夏休みなんて絶対人多いじゃん」
ウミちゃんが言うモールとは、ここから電車で数駅離れたショッピングモールのことだ。飲食店、映画館、洋服、雑貨、日用品。大きい敷地に空調の効いた室内、清潔なトイレと良好なアクセス。大人も子供もたくさんの人が利用している、一か所で完結する娯楽の場所。普通の土日だって人は多いが、夏休みなら中高生はさらに多いだろう。
「そんなこと言わないで行こうよ~。クレープごちそうしてあげるから」
「行かない。仮に行くとしても小学生に奢られたりしない」
「じゃあ奢らないから行こうよ~」
「嫌。人混みだるい」
「もー。じゃあ今度は絶対行こうね」
そういってウミちゃんは席を立つ。ミツキちゃんに素っ気なくされても明るく人懐っこいウミちゃん。それは彼女の良い所だと思う。
ミツキちゃんと話が終わったウミちゃんは、フロアの片隅にある据え置き型の電子ピアノのところに行き、席に着く。ここにピアノを弾ける職員はいないのだが、なぜか(わりと立派な)電子ピアノが置いてある。ウミちゃんはそんな不運なピアノを使ってくれる子の一人だ。
ウミちゃんは優雅な手つきでピアノを弾き始める。私はウミちゃんが弾くピアノが好きだ。ウミちゃんのピアノは上手だが、それだけじゃなくて、ピアノを習っていてある程度上手な子に特有の、背伸びした感じがない。ウミちゃんが弾くピアノは、ウミちゃんにぴったりと合っていてそれが心地良い。
「相変わらず上手だね。今のはなんて曲なの?」ウミちゃんの隣に行って私は言った。
「『我が愛情』って曲だよ」ウミちゃんは言った。
初めて聞いた曲だったが、それでもウミちゃんがこの曲に愛着を持っていることは弾いている様子からわかった。
「いい曲だね」私は言う。
「この曲はね、天国に居る人と生きている人をつなぐ曲なの。天国に居る人と生きている人の会話を表しているの」
ウミちゃんはそう言った。確かにそう言われてみれば、二種類のメロディーが繰り返されて、まるで対話をしているようにも聞こえる。「元気?」「元気だよ」例えばそんなふうに、何気ない会話のやりとりを想像させる。
「わかっていると思うけれど、ミツキちゃんは別にあなたのこと嫌いじゃないのよ」
私は言った。ミツキちゃんからしたらお節介と思われるかもしれないけれど、私はこの子に、ミツキちゃんのことを誤解していほしくなかった。そのせいでこの子が傷ついてほしくなかった。
「知っている。ミツキちゃん、引きこもり体質だもんね」
ウミちゃんは達観した口調で言う。小学生の口から「引きこもり体質」という単語が出ると正直違和感はあった。
「ミツキちゃんが『嫌』だけじゃなくて、その理由をちゃんと言うのは、ウミちゃんのことを大切に思ってるからだと思うの」私は私なりに、ミツキちゃんの心を代弁する。
「それも知ってる。ミツキちゃん、コミュ障だもんね」
それもウミちゃんの口から聞くと違和感のある言葉だった。そう思うのは、私がウミちゃんより年長者だからだろうか。それとも、ウミちゃんなりにミツキちゃんを理解しようとする、背伸びした結果なのだろうか。
ウミちゃんのお母さんは去年亡くなった。
ウミちゃんにどんな言葉をかけ、どんなふうに接したらいいか、今でも私は時々わからなくなる。この子は今、誰にどんなことを求め、何を必要としているのだろう。
「そうだ!」急に何かを思いついたように、ウミちゃんはそう言って立ち上がりミツキちゃんのところへ行く。
「ねぇねぇミツキちゃん、勝負しようよ。私が勝ったら今度遊び行こ」
ウミちゃんはそう言って、ミツキちゃんは気だるそうにウミちゃんに目を向ける。