生きることの意味
人が生きている意味は何かと聞かれれば、人に生きている意味などないのかもしれない。
それでも、私が生きることに何かの意味があればいいなとも思う。
人は皆、自分の意思で生まれてきたわけではない。
気がついたら生を受け、その命が続いて今がある。
人生とはある意味で、命が続いてきたことの結果論だ。
世界には様々なものが存在し、その中に生き物がいる。
生き物の中に人間がいて、人間の中に私達がいる。
私達は大きな流れの中の一つでしかない。
大きな流れの中にある、とりとめのない過程の一つでしかないのかもしれない。
それでも、私が生きることに、何か意味があればいいなと誰しもが思う。
自分が生きていることに、意味を見出したいと思う。
私はなぜ生きているのか?そう考えずにはいられない。
人はなぜ生きるのか
美しい夢のために生きる
人は自分の命に意味を見出そうとする。
その中でよくあるものの一つが、「夢」や「美」に意味を見出すことだ。
ここで言う「美」とは外見の美しさというわけではない。
ここで言う「美」とは信念や価値観に近いものだ。
つまり「夢」であれ「美」であれ、自分の精神世界を外に表現・実現させようとする試みだ。
ミュージシャンになりたい。
画家になりたい。
小説家になりたい。
俳優になりたい。
お花屋さんになりたい。
ケーキ屋さんになりたい。
サッカー選手になりたい。
野球選手になりたい。
研究者になりたい。
自分のなりたい夢に向かうこと。
あるいは叶えた夢の中で生きること。
それに生きている意味を見出す人もいる。
具体的な夢でなくても、自分の生き方に美しさを求め、それを意味とする人もいる。
人に優しくありたい。
正直でありたい。
自分に厳しくありたい。
そういった信念の中で日々を重ねていけることに意味を見出す人もいる。
富のために生きる
お金や地位、名誉のために生きる人もいる。
それは卑しいことのように思えるが、これも生き方の一つであり、必ずしも卑しいことではない。
富に思いを持つということは、時として社会に影響を与えることができる。
そうでなくても、周囲に影響を与えることができる。
お金で買えない幸せもあるが、お金で買える幸せがあることも事実だ。
合理的に生きる
合理的に、理路整然と生きるということも一つの在り方だ。
毎日の生活を規則正しく健康に生きる。
そこに充実感を感じることもあるだろう。
世の中の不正義が正される。
そこに爽快感を覚える人もいるだろう。
解けなかったパズルが次第に完成し、最後のピースがパチッとはまる。
そこに高揚を覚える人もいるだろう。
世の中の成り立ちを、自分の頭で理解していく。
そうやってたくさんのことを知り、自分が成長していく。
そういったことに生きる意味や楽しさを見出す人もいる。
誰かと生きる。誰かのために生きる
家族や友達、大切な人と生きることに喜びを感じる人は多い。
誰かと生きていけることに、幸せと生きている意味を感じる人は多い。
子供がいれば子供の成長に力を注ぎ、守りたい人がいればその人に力を注ぐ。
つまり誰かのために生きることが、自分の生の意味になっている人もいるだろう。
自分一人で完結しない、誰かとの人生は魅力的だ。
人は一人では生きていけない。けれど私にはあなたがいる。
そう思えたら、とても幸せな気持ちになる。
けれど、誰かと生きたり誰かのために生きることが、生きることの意味の唯一の正解というわけではないだろう。
先の富を生きる意味としている人と比べると、誰かと生きることに意味を見出している人は、いくぶん命に対して清い印象をうけるかもしれない。
けれど、誰かを通さなければ生きる意味を見出せないことはある意味で危険なことでもある。
他者に依存する命は脆いという側面もあるからだ。
それでも生きるということ
人によって生きる意味は様々だ。
人はそれぞれ、自由に生きる意味を選び取ったらいい。
たくさんの人がそれぞれの生きる意味を持っている。
そしてそれ以上に、たくさんの人が自分の生きる意味がわからない。
生きる意味を持たずに生きるということも、一つの選択なのだ。
朝の清々しい空気や、季節の移り変わり。温かいコーヒーや背筋を伸ばすこと。
何気ないことに命を感じながら、日々の小さな心地良さを積み重ねていく。
それだけで充分だと思える日もある。
自分の人生に意味があればいいなと思う。
けれど意味なんてないかもしれない。
意味がないものに価値がないとは限らない。
価値があることが幸福とも限らない。
ただ私達は、そうあるだけなのだ。
私は私の命が向かう方向を、もう少し見届けながら、今日も朝の窓際でコーヒーを飲む。