明鏡止水(めいきょうしすい)の意味
明鏡止水とは、心が明るく澄み切った状態を指す四字熟語だ。
明鏡とは曇りのない鏡のことで、止水とは揺れのない水面を表す。
つまりどちらも澄み渡った状態を指していると言えるだろう。
一点の曇りもない鏡のように澄み渡り、一滴の揺れもない水面のように静寂であること。
まさに明鏡止水とは、心に邪念や迷いがなく、清く穏やかでそれでいて凛とした状態と言えるだろう。
明鏡止水は、日常の会話に使われるよりは座右の銘として扱われることが多い気がする。
例えば「絶体絶命のピンチ」などという表現はありふれた表現の一つであると思う。
このように、会話表現に溶け込んだ四字熟語というものは多い。しかし「あの人は明鏡止水な人だ」と言う人は(いるかもしれないが)少ないだろう。明鏡止水という言葉は、有名な四字熟語であるが会話で使う言葉として浸透しているとは言い難い気がする。
一方で、明鏡止水という言葉は非常に綺麗な言葉だ。自身の心が明鏡止水であれば、それはどんなに良いことだろうか。明鏡止水を日常会話で使わなくても、例えば座右の銘にしたり歳初めの書初めに書く人はいるかもしれない。
明鏡止水とは、会話の比喩としてよりも生きていく上での教訓として機能している四字熟語であるように思う。
明鏡止水の対義語・反対語はなんだろうか。
明鏡止水に明確で定まった対義語・反対語はない。しかし対義語・反対語と言えるであろう、それなりな四字熟語はいくつかある。
例えば「疑心暗鬼」。疑いの気持ちで心を占めらた状態は、明鏡止水な状態とはほど遠いだろう。
あるいは、「五里霧中」も対になるかもしれない。物事の方向性が定まらずはっきりしない様子は、澄み切った迷いのない明鏡止水な状態とは反対と言えるだろう。
聞き慣れない人も多いだろうが、「意馬心猿(いばしんえん)」という四字熟語も明鏡止水の反対語として興味深い。煩悩にとらわれ心が落ち着いていない様子は、明鏡止水の反対と言えるだろう。
いずれにせよ、自分の生き方や考え方、言動。これらが明鏡止水でありたいものだ。そのようであればどれだけいいだろう。
生きることはなかなか難しい。迷ったり悩んだり後悔したりの連続だ。失敗もするしその度に心を乱してしまう。時折ある幸運な成功すら、心を揺れ動かす波になってしまう。
明鏡止水であることはなかなか難しい。このページも、明鏡止水の意味を書きながらずいぶんと脱線し、五里霧中だ。