自分が無能であることに気づくこと

オムニバス(エッセイ風小説)

自分が無能であることに気づくこと

自分の中の無能さ

 自分が無能であることに気づくということは、自分の得意と苦手を知るということだ。

 「自分が無能である」と気づくことは、ネガティブなこととは限らない。
 自分が無能であると知ることは、自分の苦手を知ることで、それは相対的に自分の得意や強みを知ることだ。

 人には向き不向きがある。完璧な人間などいない。
 ある物事について得意であっても、ある物事については苦手なことがある。
 だから優秀さ・無能さというものも、相対的なものだ。

何かに対する無能さ・何かに対する有能さ

 無能さ・有能さというものは相対的なものだ。
 どんな人がどんな状況でどんなことをするかで変わる。

 例えばサッカーが得意な人もいれば野球が得意な人もいる。
 サッカーが得意で野球が苦手な人が野球をしていたら、その人は野球に関しては無能かもしれない。
 けれど「その人自体が」無能とは限らない。サッカーがその人は得意なのだから。

わざわざ無能になるということ

 自分の無能さを知るということは、わざわざ無能になってしまう場所・事で何かをしようとするなということだ。

 自分が得意なこと、有能になれる場所で物事に取り組めばいい。
 わざわざ苦手なこと・嫌いなことをやって無能になる必要はない。

 例えばあなたがテニスが好きで、友人とテニスをしているとする。
 あなたはテニスの経験があり、友人はテニスをするのは初めてだ。
 友人は右利きなのに、左手でラケットを振ろうとする。結果、友人は空振りばかりであなたとのラリーはまったく続かない。
 そのような状況だと、あなたは「とりあえず利き手を使ったら?」と思うのではないだろうか。

 多くの人は、「自分が苦手なことに取り組むことは良いこと」と考える節がある。
 もちろん、状況によっては間違いではないが、別の見方をすると、

 わざわざ自分が無能になる状況を作るのはある意味で滑稽である。

 それは初心者のくせに非利き手でラケットを振るようなものなのだ。

自分の強み

 自分は何に関しても無能で、得意なことなんてない。
 そう思う人も中にはいるかもしれない。
 しかしそれは一種の思考停止かもしれない。

 人と比べるばかりは「得意」や「苦手」じゃない。
 自分の中で比較することも「得意」や「苦手」だ。


 たとえ人よりサッカーが下手であっても、自分の中で野球よりはサッカーが得意であれば、それは重要なあなたの特性だ。
 そうやって自分の凹凸を知ることは、自分の人生を生きやすくしてくれる。

 自分が何について無能かを知ることは、自分という存在自体を「無能」と決めつけることと似ているようで全く違う。

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