他人の不幸で自分の生き方が正しくなるわけではない。

オムニバス(エッセイ風小説)

他人の不幸と自分の正しさ

誰かの不幸の中で

 目の前の他人の不幸で、自分の生き方が正しくなるわけではない。

 例えば独身の私がいて、結婚をした誰かがいて。その人があまり幸せでない結婚生活を送ったら、私は少しホッとするかもしれない。
 けれど、それで何か、例えば私の人生にとって有意義な何かが得られるわけではないのだ。

 例えば私が会社にいて、誰かが会社を辞めたとき。その人がうまくいけばなんだか自分が虚しく、その人が会社にいた頃より大変な思いをしていたら、辞めなかった自分に少しホッとするかもしれない。

 あるいは私が会社を辞めて、誰かが会社に残るとき。私が辞めてほどなくして、会社の福利厚生が改善したら少し損をした気持ちになるかもしれない。あるいは会社が傾き出したら私は辞めてよかったと自分の判断を肯定できるかもしれない。

自分の人生の正しさ

 私達は初めての自分の人生の中で、何が正しいかいまひとつ自信が持てない。たくさんの選択肢から、自分にとっていいものを選べているのかわからなくなる。

 自分が正しいかどうか、間違っていないかどうか、(そもそも人生に正しいとか間違っているとかないのかもしれないけれど)他人の幸と不幸で推し量るときがある。
 相対的に、誰かが不幸であれば、不幸でない自分を正しいと感じることができる。
 相対的に、誰かが幸せになると置いて行かれた自分は間違っていたのではないかと感じる。

 人生は競争ではないけれど、勝負でも比べるものでもないけれど、それはわかっているけれど、私達は目の前の他人の幸せや不幸に何かを感じてしまう。

 誰かが変化するとき、自分が置いて行かれたような気がする。誰かが新しくなる中で、新しい幸せを手に入れる中で、自分は古いまま。そしてゆっくり色褪せていっているかと思うと、なんとも虚しい気持ちになる。

 そんなとき、他人の不幸を見ると、一時的に、自分の人生のくすみのようなものを見ないで済む。

私がどこかへ行けるということ

 けれど、他人の幸せと不幸で自分の人生を判断しても、私はどこにも行けないのだ。
 そこに私の幸せはきっとなくて、ただ他人の不幸を望むそわそわとした心があるだけなのだろう。

 私達は自分の人生にきっと責任を持たないといけない。
 たぶんそれは自分の幸せは自分で見出すということなのだ。
 誰かの不幸でそれを感じたり、誰かの幸せでそれを失ったりしないように。

 私達は自分の足で歩いて、変化していく。
 それはたぶん、幾分心地良いことだと思う。

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