砂山のパラドックス
砂山のパラドックスとは
砂山のパラドックスというパラドックスがある。
ソリテス・パラドックスと言われることもある。
砂山から一粒の砂を取り除いてもそれは砂山のままだが、そうやって砂粒を一つずつ取り除いていったとき、最後に残った一粒は「砂山」と呼べるのだろうか。もし呼べないのであれば、それはいったいどこまでが「砂山」でどこからが「砂粒」なのか。
人の認知や境界線の曖昧さに疑問を投げかける思考実験と言えるだろう。
境界線の難しさ
砂山のパラドックスは考えれば考えるほど境界線を引くことの難しさを感じずにはいられない。
砂が集まった山を「砂山」と呼ぶことは簡単である。
同様に一粒の砂を「砂山でない」と言うことも簡単だ。
では、「どこまでは砂山」であり「どこからが砂粒」なのだろうか。
一万粒ほど砂が集まれば砂山なのだろうか。
では一万粒に一粒足りなければそれは砂山ではないのだろうか。
私達は、何をどのように認知しているのだろう。
今見ていた砂山が、急に一粒の砂になれば、私達はそれが砂山でないと感じるだろう。
しかし例えば長い時間をかけて、一粒、また一粒と砂が消えていくとき、私達はそれが砂山であることに疑問を感じない。
砂は長い時間をかけて着実に減っていく。
そしてあるときに気づく。これは砂山ではないと。
本当はだんだんと砂山でなくなっていたのに、私達はそれに気づかなかった。「砂山でなくなっていく砂山」を、ただの砂山としてしか見ていなかった。
もうこれは砂山ではなく砂粒の集まりでしかないかもしれない。
一旦そう感じると、今度はそこに一粒の砂を足したとしてもそれを砂山とは思えない。
長い時間をかけて
砂山のパラドックスは境界線を引くことの難しさを教えてくれる。
砂山のパラドックスは私達が「砂山」と呼ぶ言葉がいかに曖昧な定義の下で成り立っているのかを教えてくれる。
だから私達が別れることも、きっと本当は少しずつ砂粒が減っていて、それに気が付かなかった結果なのだ。
結婚して十年。日常が日常になりすぎて、風が吹いても雨が降っても、私は砂山は砂山のままだと思ってしまっていた。
そしてある日私達が見たものはわずかな砂粒の集まりでしかなかった。けれどそれは、昨日まで砂山だったわけではない。一粒ずつ時間をかけて消えていく砂粒に、私達は気づかなかっただけなのだ。