男性は女性に食事を奢るべきなのか

オムニバス(エッセイ風小説)

男性は女性に食事を奢るべきなのか

食事代は割り勘か奢りか

 男性は女性との食事代を払うべきなのか。
 女性は男性に奢られて当然なのか。

 これは永遠に決着がつかない、あるいは決着がついてもまた白紙に戻る永遠のテーマである。

 小学生の頃、よく先生に怒られる子がいた。
 要するにその子は先生に好かれていなくて、他の子だったら大して怒られないことでも、その子がすると同じことでも怒られていた。(社会に出ると、大人でもそういうことがあることに気づく)

 食事を奢るべきか否かも、そういうことだ。

 つまり、世の中には奢ってもらえる女性と奢ってもらえない女性がいる。
 その不平等さに声を上げたところで、奢ってもらえない女性が食事を奢ってもらえるようになるわけではない。
(逆に奢ってもらえる女性は声を上げなくても奢ってもらい続ける)
 感情は理屈ではなく、そして感情は不平等なものなのだ。

四種類の人間

 世の中には四種類の女性がいる。

  • 男性は奢るべきと考え、実際に奢ってもらえている女性
  • 男性が奢る必要はないと考え、けれど実際は奢ってもらえる女性
  • 男性が奢る必要はないと考え、実際に割り勘をしている女性
  • 男性が奢るべきと考え、しかし実際は奢ってもらえていない女性

 言わずもがな、四番目はきつい。「奢るべき」と「べき論」を主張しながら、その主張が対象者に届いていない。つまり男性に相手にされていない。
 たぶん私達がすべきことは、全ての女性が奢られる社会をつくることではなくて、自分がこの四番目にならないようにすることかもしれない。

感情の不平等さ

 世の中には奢ってもらえる女性もいれば、奢ってもらえない女性もいる。
 世の中には奢る男性もいれば、奢らない男性もいる。

 世の中は不平等で、人の感情は理不尽だ。
 誰かには優しく接するのに、別の誰かには辛辣な態度を取る。
 そのような言動の差は時として人を傷つけるし、人を傷つける行為が「正しい」かと言えば疑問が残る。

 けれど、人の感情が不平等で理不尽なことは、「間違っていて」「根絶すべき」こととまで言えるのだろうか。

 私達は心を持っている。それはずいぶんと曖昧で、偏っていて、視野が狭いものだ。
 けれど私達はその心だとか感情だとかで生きている。

 他人よりも友人に親しみを感じ、街ですれ違う人よりパートナーに愛着を感じ、誰かよりも我が子に愛おしさを感じる。
 それはある意味で、私達は自由であるということなのだ。

 誰かを好きになったり嫌いになったり、誰かに興味を持ったり無関心であったり、それはある意味で私達が自由であるということなのだ。

 自由であるということは、多様であるということで、それは人それぞれであるということだ。
 きっと食事代の払い方も、いろいろな形があるのだろう。その多様さを、大切にしたらいいのだと思う。

 しかしそんな多様な世の中でも、確かなことが一つだけある。
 それはタダで食べるご飯は美味しいということだ。
 男性が奢るべきとは自分は言わず、けれど奢ってもらえるご飯が一番美味しい。たぶん。

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