哲学的ゾンビ
哲学的ゾンビとは
哲学的ゾンビとは端的に言うと、「もしも言動は一緒だけれど、そこに心が伴わない人間がいたら?」という哲学・思考実験の類である。
端的に言ったので専門的見地からは語弊があるかもしれない。
このためもう少し言葉を尽くしたいと思う。
哲学的ゾンビとは、クオリアを持っていない人間のことである。
クオリアとは主観的な経験や感情を指す言葉だ。
哲学的ゾンビは、私達と同じように行動できるのだが、そこにクオリアがない。
クオリア(主観的な経験や感情)とは
クオリアとは主観的な経験や感情のことを指す。
私達は同じように見聞きして同じように情報を共有しても、それを本当に同じように感じているかわからないしその証明もできない。
例えば晴れた春のある日、公園に美しく咲く桜を見たとしよう。
その桜の木は「美しい桜の花」を咲かせている。
しかしこの「美しい桜の花」に対する「美しい」という感情は同じなのだろうか。
ある人は小学生の頃の出会い思い出し、「とても鮮やかでわくわくする」「美しい桜の花」と感じるかもしれない。
ある人は卒業と同時に恋人と別れたことを思い出し、「淡く切ない」「美しい桜の花」と感じるかもしれない。
いずれにせよ、私達の目の前にあるのは「桜の花」だ。桜の花はピンクないし白に近い淡いピンク色で、春の陽光の中で散り、舞っている。これらは共有されている情報だ。しかしその奥底、個人個人の主観的感情は異なるかもしれない。
「桜が綺麗だね」
「そうだね、綺麗だね」
例えばそう言ったとき、両者は「綺麗」という言葉で共感をしている。けれどその「綺麗」という感じ方は、本当にまったく一緒なのだろうか。
もう少し極端に、クオリアについて問う例を挙げていきたい。
例えば生まれた瞬間に脳を手術され、桜の花を見ると「綺麗だなぁ」という感情が自動的に芽生えるように仕組まれた人がいるとする。
その人と一緒に桜の並木道を歩き、あなたは桜を見て深く感動し、あなたは「綺麗だね」と言い相手も「綺麗だね」と言ってくれる。しかしそのときあなたはその人と「共感できた」と思えるだろうか。
クオリアがないとはつまりこういうことである。
クオリアとは主観的な経験や感情である。
クオリアがないとは、その人の反応や感情がただの生理現象として生じていることを意味する。
哲学的ゾンビとは、クオリアがない人間を指す。
哲学的ゾンビの解説
ここまでを踏まえて、哲学的ゾンビの誤解されがちな点を解消しておきたい。
哲学的ゾンビとは「感情がない人間」のことではない。
哲学的ゾンビと一緒に感動的な映画を観れば、哲学的ゾンビは涙を流す。
けれどそこに主観的な感情はない。
哲学的ゾンビは「サイコパス」ではない。
繰り返しになるが、哲学的ゾンビと一緒に感動的な映画を観れば、哲学的ゾンビは涙を流す。
悲しい・嬉しい・怒りなど人と同じように感情を発露できる。
哲学的ゾンビは「記憶喪失」ではない。
例えばあなたの恋人が急に哲学的ゾンビになっても、それ以前のことはきちんと覚えている。
言動も同じだ。ただそこに主観的な感情がないだけだ。
哲学的ゾンビは「精神疾患」などの病名ではない。
哲学的ゾンビは思考実験や哲学の分野の言葉であり、医療的な脳疾患ではない。
哲学的ゾンビの示唆
私達は他者と感情を共有するとき、そこにクオリアを求めるのかもしれない。
しかしクオリアの存在を科学的に証明することは難しいし、私やあなたにクオリアがあるかどうかもわからない。
そしてもう少し現実的に、哲学的ゾンビやクオリアについて考えてみたい。
私達は、自分の心をあまり響かせないまま日々を過ごしてしまうことがある。
あまり面識がない親族の葬式。
入社したばかりの会社で行われる送別会。
愛着のない学校の卒業式。
思い入れのない友人からの親切。
私達はどれだけ主観的に感情や体験を重ねることができているのだろうか。
私達はもしかしたら、人生の中でその生き方や日々の過ごし方や思いによって、人間にも哲学的ゾンビにもなり得るのかもしれない。