コーヒーを飲みながら
コーヒーを飲みながら本を読む。
そう聞いたとき、あなたはどんな状況を思い浮かべるだろう。
ある人は、朝の眠気を振り払うためのコーヒーを想像するかもしれない。
またある人は、夜中の眠気を遠ざけるためのコーヒーを想像するかもしれない。
つまりこの物語はこのような問いかけから始まる。
私がコーヒーを飲んでいる今は、果たして何時なのか。
私がこうしてコーヒーを飲みながら本のページをめくっているのは、朝なのだろうか夜なのだろうか。
物語の描き方において、しばしばこのような形式が用いられる。
結末がAの可能性とBの可能性を冒頭で提示する。そして物語が進む中で最終的にその答えがわかる。
例えば主人公とヒロインの恋愛は成就するのかしないのか。
勇者は魔王を倒せるのか倒せないのか。
殺人事件の犯人は誰なのか。
主人公が直面した謎は解けるのか否か。
初めに物語の「引き」として結末の可能性を投げかけ、その過程を描いていく。読み手はあれやこれやと結末を考えながら物語に引き込まれていく。よくある手法だろう。
だからこの物語はとてもくだらない物語だ。
なぜならこの物語が描くのは、「この人物がコーヒーを飲んでいる時間は朝なのか夜なのか」という実に個人的で実に他人は興味がない、くだらないことだからだ。
私はドリッパーにペーパーフィルターとコーヒー粉をセットし、熱湯を注ぐ。
外はまだ暗い。静寂の中、コーヒーの香りを感じる。
自宅で一人静かに、コーヒーを飲みながら本を読む。
ささやかだが、そういう時間が私は好きだ。
コーヒーを飲みながら本を読む時間は、私にとって自分を整理し調整してくれる時間のような気がする。
言葉にしたり考え出すと途方もない、自分の生き方とか在り方を、言葉にならないもので整理し調整してくれているような気がする。
あなたはどんなときにコーヒーを飲むだろう。
朝の目覚めに飲むだろうか。
それは一日の始まりに活力を与えるためか、それとも重たい腰を上げるためか。
昼の休息に飲むだろうか。
それは午後からの意気込みだろうか、ひと時の逃避だろうか。
夜の覚醒維持に飲むだろうか。
それはしたいことがあるからなのか、すべきことがあるからなのか。
あるいはコーヒーは飲まないかもしれない。
そろそろ私がコーヒーを飲んでいるのは、朝なのか夜なのかはっきりしたいと思う。
私は一人暮らしの自宅で、午前四時にコーヒーを飲みながら本を読んでいる。