社会人で会社に遅刻するのはありえないという価値観

オムニバス(エッセイ風小説)

会社に遅刻をするということ

会社に普通に遅刻すること

 会社に遅刻すると、自尊心が多少なりとも傷つく。
 会社に遅刻をすると、何とも言えない気恥ずかしさがある。

 ここで言う遅刻とは、ちゃんとした理由がある遅刻ではない。
 例えば子供が朝から急に熱を出したとか、電車が急なトラブルで止まったとか、自分に非がない交通事故に遭ったとか、そういう遅刻ではない。

 例えば前日に夜更かしをして寝過ごしたとか、目覚まし時計が鳴らなかったとか、家を出る時間が単に遅かったとか、そういう遅刻だ。
 要するに、ただただシンプルに、「普通に遅刻する」ことだ。

遅刻の惨めさ

 普通の遅刻をすると、情けなさのようなものが頭をよぎる。惨めさのようなものが頭をよぎる。
 「社会人にもなって」「いい歳をして」という感覚。
 私はそこまで社会の歯車として順応できているわけではないが、そんな私でも多少なりとも、社会人としての常識のようなものは備わっているようだ。

 これが子供の急病なら、子育てに多忙な人というアイデンティティがあるかもしれない。
 これが電車のトラブルなら、仕方がない。
 これが非のない交通事故なら、とりあえず怪我がなくてよかった。

 けれどそういうことではなくて、ただただ、家を出る時間を見誤った遅刻は、なんとも残念だ。
 シンプルな遅刻は言い訳の余地がない。
 「朝時間通りに起きられるようにしておく」「もっと余裕を持って早く家を出る」ただそれだけなのだから。

遅刻を怒られること

 普通の遅刻をして上司や先輩に怒られると、これがまたなんとも情けない。学生みたいだ。
 私は言い訳の余地がない。仮にそれらしいことを言っても、今度は「遅刻ごときで言い訳をしている自分」というのが透けて見えて余計に情けなくなる。

 何もしなくても情けなくて、何かをすると余計に情けなくなる。
 人生には、そういうシチュエーションがある。

 逆に、周りが怒らないのもそれはそれで居心地が悪いものだ(怒られないほうがマシだけれど)。
 「そういうこともあるよね」と優しくされると、その人の大人っぽさと自分の未熟さの落差が情けなくなる。
 あるいは、口ではそう言っているけれど、みんな心の中では私に呆れてるかなと思ってしまう。

 いずれにせよ、自分の未熟さをただただ自覚する。
 人生にはそういうシチュエーションがある。

遅刻することは悪いことなのか

 けれど遅刻する私は、本当にダメ人間なのだろうか。
 そういう考えも、私の頭の中をよぎる。

 会社の言われた通りに動くことが、時間通りに動くことが、優秀さなのだろうか。

 人前で部下を怒鳴る上司より、自分の話ばかりするあの先輩より、私は常識がないのだろうか。

 そんなふうに考えると、たかが遅刻。とも思う。
 遅刻に頭を悩ませて、自分の自尊心を下げてしまうのは、それこそ会社や社会に植え付けられた価値観でしかない。洗脳されている。そんなふうに思う。

 そんな価値観こちらから願い下げだ。私は遅刻をする不完全な人間だが、歯車よりマシだ。そんなふうに自己肯定してみる。

 けれどもけれども、「そんな高尚な哲学に浸らないで、単に朝もう少し余裕を持って家を出なさい」冷静な私の中の私が諭したりもする。そりゃそうなんですけどね。私は私に相槌を打つ。
 それに私は、遅刻を肯定できるほど、尖った優秀な人間じゃない気もする。

 そんなふうに、遅刻をした自己嫌悪と、それを埋め合わせる自己肯定の方法で行ったり来たりする。

 結局のところ、こういうウダウダな自分に、常識がないことはないけれどそれに浸りきれない自分に、愛着を持てればいいなと思う。

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