片脚のない猫

オムニバス(エッセイ風小説)

春の温かさは穏やかで切ない

 片脚のない猫は春の野原を歩いていた。
 その日は雲一つない澄み渡った空から温かな陽光が降り注ぐ本当に気持ちの良い天気だった。風は過ぎ去ったばかりの冬の冷たさをほんの少し残してはいたが、優しく穏やかに吹いていた。だからその肌寒い風も、温かで穏やかな陽光と相まって、春の心地良さを作っていた。ちょうど寒い冬の夜(よ)に入る露天風呂のように、二つの温度差が心地良かった。  
 片脚のない猫は春の野原を歩いていた。片脚のない猫はかつて自分の育ててくれた母親のことを思った。母親は四本の脚のある、平凡だが整った猫だった。しかしそのことを驕ったり片脚のない猫のことを同情したりはしなかった。親子だからではない。片脚のない猫の母親は、そのような価値観を持った猫だった。片脚のない猫にとって家族はその母親ただ一匹だけだった。兄弟はいない。父親には一度も会ったことがない。時々、自分は母親に父親のことをもっと聞いておいたほうがよかったんじゃないかと、片脚のない猫は思う。母親はある冬の寒い夜に身体を冷たくして眠るように死んでしまった。野良猫にとって冬はとても厳しい季節なのだ。

しなやかで社交性のある猫

 片脚のない猫は春の野原を歩いていた。するとそこに黒い猫が現れた。彼とは言葉を交わしたことがある。黒豹のようにしなやかで力強い体をした猫。片脚のない猫と違い、社交性がある猫だった。
 「一匹かい?」黒い猫は片脚のない猫に言った。
 「うん」片脚のない猫は立ち止まって黒い猫にそう言った。
 「君と初めて会ってからどれくらい経つだろう」
 「きっと二年と少しだね」
 「時間の流れは早い」
 「うん」
 「三本脚はつらいかい?」
 「楽ではないよ」
 「この前、ある猫が言ってたんだ」
 「なんて?」
 「俺が言ったんじゃないぜ」
 「わかってる」
 「君はずいぶん変わり者だってさ。そういってその猫は笑いながら言ってたよ。片脚がないのに平気な顔してる。まるで不自由を好んでいるみたいだ。片脚のない猫は考え方まで片脚がないんだなって」
 片脚のない猫は何も言わなかった。黒い猫もそれ以上何も言わなかった。だから沈黙ができた。黒い猫は本当はそんなこと言いたくなかったのだ。しかし、言わないわけにはいかなかった。なぜなら片脚のない猫は黒い猫にとって大切な友達だからだ。友達が他の猫から白い目で見られるのに耐えられない。
 「一つ言ってもいいかい?」片脚のない猫は言った。
 「ああ」黒い猫は頷く。
 「これは強がりではなくて、本心なんだ。だから君にもそう受け取ってほしい」
 「ああ」
 「僕は、四本脚では歩けない。けれど、三本脚の歩き方なら他のどの猫よりも上手い」
 「その通りだ」
 「僕は僕の歩き方が馴染んでいるんだ」
 「俺だって自分の歩き方が性に合ってる」
 「みんな一緒さ」
 そう言って片脚のない猫は再び歩き始めた。きっと他の猫が三本脚になっても、今の彼ほどうまく三本脚で歩くことはできないだろう。

三本の脚で歩くこと

 彼は穏やかな春の日を歩いている。
 温かさは時として切なさを感じさせてくれる。
 そう、片脚のない猫は思う。
 決してそこに悲壮感はない。けれど、何かこの世の中には、自分には、尊いものがある気がする。そしてその尊いものはおそらく有限であり、いつか手(前脚)から零れ落ちるもののような気がする。
 だからどうしたらいいと、片脚の猫に方略があるわけではないのだけれど。

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