「強い自分」と「弱い自分」について
強い自分と弱い自分
人は誰しも「強い自分」と「弱い自分」がいる。
そして人生の過ちの多くはどちらかの自分の声にしか耳を傾けなかったために起こる。
と、私は思っている。
例えば肩の上を飛ぶ二人の天使と話し合うように、強い自分と弱い自分に耳を傾ければ、私達はもう少し思慮深く、もう少し懸命に生きることができるかもしれない。
強い自分
「強い自分」とは自身の輪郭をはっきりととらえ、他人と自分を区別できているときの自分だ。
強い自分のとき、人は往々にして自信を持ち、自己肯定感を持ち、自分の生き方を肯定できている。
自分がどういうふうに生きて、自分が何を正しいと思い、自分が何をすべきがはっきりしていて、そういう人生の輪郭のようなものがわかっている。
だから他人を批判することも容易い。
なぜあんなふうに考えるか理解できない。
私だったらあんなことは絶対しない。
あんなふうにはなりたくないものだ。
そういうことが易々と言える。
他人と自分が違うということを自信を持って言える。
自分が嫌悪する存在に自分がなることはないと思える。
なぜ人は強い自分になれるのか。その理由は様々だ。
ある人にとっては「若さ」が強い自分を呼び起こしているのかもしれない。
ある人は「お金」や「権力」といった形のある力で自信を持てるのかもしれない。
ある人は「結果」や「才能」といったもので自分を肯定しているのかもしれない。
ある人は「褒められる自分」や「失敗しない自分」に価値を見出しているのかもしれない。
いずれにせよ、強い自分のとき、人は心地良く生きることができる。
弱い自分
一方で、人は誰しも弱い自分になるときもある。
「弱い自分」とは自分という存在の輪郭をとらえることができず、他人との境界線が曖昧な状態だ。
自分に自信が持てないから他人の無責任な言葉に流されるし、自分の思いや自分の考え、自分の気持ちが自分でもわからなくなってしまう。
自分の心が自分から切り離されたような感覚で、何に関しても「自分らしく行う」ことができない。
弱い自分は往々にしてそれまで積み上げてきた自分の何かが崩れたときに現れる。
それはキャリアとか人間関係とか容姿の端麗さとか健康とかかもしれない。
あるいはもっと抽象的な自信かもしれないし価値観かもしれないし信念かもしれない。
そして強い自分のときに取った短絡的な行動が、弱い自分になったときほど自分の心をえぐる。
それはブーメランのように自分を追い詰める。
多様な人生の中で
私達は誰もが心の中に強い自分と弱い自分がいて、人生の中でその両方を経験する。
もちろん、終始強い自分で居続けられる才能を持った人間もいるかもしれない。
しかしそういう人は稀であるから、自分自身は凡庸なところからスタートしたほうが賢明だ。
つまり強い自分と弱い自分の両方に耳を傾け、自分の人生に対して優しく誠実に、思慮深く向き合うことだ。
私達は生きていて、そして生きるということは様々な局面に出会うということだ。
そのような日々の中でしなやかに、肩の力を抜いて生きることは一つの教訓であろう。