多様な価値観で共感を失っていくこと

オムニバス(エッセイ風小説)

細分化と共感

多様になる価値観

 価値観が多様になり細分化されていくことは、他者との共感の機会が減っていくことかもしれない。

 インターネットにより、私達は自分の好みをより詳細に求めることができるようになってきた。
 アルゴリズムで絞られていくコンテンツは、私達におすすめの動画や商品を提案する。
 SNSは周囲にはいない趣味の合う人・意見が会う人との出会いを可能にする。
 私達は自分の価値観に合う「小さな輪」に出会えるようになった。そこで共感することは、かけがえのないことだ。

 しかしそれにより失われた価値観もあるかもしれない。
 例えば家族はそれぞれ好きな番組を見る。テレビが一家に一台ではなく各部屋に一台になり、そして今度は個々がスマートフォンを持つようになった。そうなっていけば、もう同じ番組を見る必要はない。「誰かに合わせた番組」を見る必要はない。「自分が一番見たい番組」を見ることができるのだから。
 例えば会社でスマートフォンを見ながら食事をする。誰かと話をするこもなく、私達の自由時間はデスクの上で完結する。

 私達は多様な価値観を実際に行使できて、それゆえに身近な人と何かを共有したり共感する機会が減っているのかもしれない。

遠い価値観と近い価値観

 遠くにある、自分にとってぴったりの価値観。
 近くにある、自分とだいたい似ている価値観。
 もしもインターネットや何かの手段で、遠い場所へアクセスできるなら、人はぴったりの価値観を選んでしまうかもしれない。
 それは間違ったことじゃない。自然なことだ。
 私達は「同じなんだ」と思えることで幸せを感じる生き物だから。

 けれど「ぴったりの価値観」を求める中で、「だいたい似ている価値観」に自分を寄せることをしなくなるかもしれない。
 それは誰かに寄り添うことを忘れさせ、誰かと一緒に居ることの尊さを忘れさせるかもしれない。

 私達は絶えず誰かを批判している。自分達とぴったり一緒ではないから。
 私達は細かい網目に目が肥えて、粗い網目で満足ができなくなっている。

 私達はもしかしたら、時々肩の力を抜いて、「だいたいの価値観」で誰かと寄り添ってもいいのかもしれない。

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