誰かの写真を撮るのではなく誰かと写真を撮るということ

オムニバス(エッセイ風小説)

家族写真は一緒に撮って

誰かと今を残すこと

 もしも大切な人がいるのなら、できるだけ一緒に写真を撮ったほうがいいと思う。

 夫、妻、子供、祖父母、恋人、友人。

 誰が大切な人か、それはたぶん人それぞれだと思う。

 いずれにしても、誰かの写真を撮るんじゃなくて、誰かと写真を撮るということ。一緒に写真に写るということ。
 それが大切だと、私は思う。

誰かの写真と誰かとの写真

 人は誰かの写真を撮りたがる。
 一番わかりやすいのは子供の写真。
 子供が生まれた夫婦は、これでもかというほど子供の写真を撮るかもしれない。

 けれど大切なのは、子供の写真を撮ることよりも、子供と一緒に写真に写ることだと思う。

 例えばたくさんの時間が流れて、子供が親を失ったとき、家族の写真はいくぶん子供の心を救うかもしれない。たぶんそのとき、子供が見たいのは、親が写した自分の写真ではない。自分と写った親の写真、家族が写った思い出の写真なのだ。

あっという間に流れていく時間の中で

 人生には限りがあるが、時間の流れは思ったよりも速い。

 押さなかったシャッターは、思ったよりも多くのものを取りこぼすかもしれない。

 写真を撮ることが重要ではない。写真を撮ろうと立ち止まり、誰かと一緒に今この瞬間の幸せを嚙みしめることが重要なのだ。

 大切な人と写真を撮ったのはいつ以来だろう。
 例えば夫婦で肩を寄せ合い、写真を撮ったのはいつ以来だろう。
 例えば家族でそろって、リビングのソファーで写真を撮ったのはいつ以来だろう。
 例えば友人と、腹の底から笑いながら写真を撮ったのはいつ以来だろう。

 流れいく時間の中で、その人と一緒に居れる喜びを振り返ったのはいつ以来だろう。

 私達は、限りある人生を生きている。
 誰かの命はいつか終わり、私の命もいつかは終わる。
 時間は永遠ではない。機会も永遠ではない。
 私達が大切にしたいものを、大切にできる時間は限られている。
 愛おしいものを愛おしいと伝える機会は限られている。

 一緒に写真を撮らない?

 そう言える日常は、明日はないかもしれないのだ。

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