家族写真
クローゼットの中を見てみれば、古いアルバムがたくさんある。
私が生まれた頃。もちろん私は生まれた頃を覚えていない。
私が初めて歩いたときの写真。一歳の誕生日や、七五三の写真。保育園の運動会や発表会。
写真を見ながら、少しずつ、段階的に、覚えている記憶がある。
保育園の頃、好きだった男の子。その頃の私は、その男の子を恋愛として好きと思っていたけれど、やっぱり恋愛なんてわかっていなかったな、と思う。少し大人びたことを言ってみたいだけ。別にそこまで(恋愛として)好きじゃなかった男の子。
小学校のランドセル姿の写真がある。お母さんと校舎の前で撮った写真。
その数年後には、中学生の制服を着た私。
高校や大学、成人式。
意外と私の人生は、このアルバムで網羅されているなと思う。
私の両親は、こんなにたくさん写真を撮ってくれていた。
写真を撮られることは嬉しくて、けれどめんどくさいと感じるときもあった。
例えば私は誕生日のケーキのろうそくは早く吹き消したかった。
カメラのシャッターを押される前に、ケーキの上に落ちそうな、溶けたろうそく。
それは嫌な気持ちではなかった。両親から愛情を受け、写真を撮ってもらえること。それは嬉しかった。けれど、一枚撮ったかと思うと「もう一枚」と言われるあのなんとも焦らされる感覚。
そういうめんどくささの中に、家族の愛情があって、私は愛されていたんだなと改めて思う。
私の両親は、私の人生をしっかり収めようと、日々シャッターを押してくれた。
「お母さん、これもあんまりなさそう」私は言った。
私と母は、父の遺影に使う写真を探している。生前父はカメラが好きで、家族の写真を撮ることが何よりも好きだった。
けれどこうして振り返れば、父は撮るばっかりでちっとも自分は写っていない。
何冊もあるアルバムにあるのは、大量の私の写真と、それよりは少ないけれどやっぱり多い私と母が写った写真。そしてわずかな、私と母と父の、家族の写真。
結局、父だけが写った写真は一枚もなかった。家族でそろって写った写真も、三枚しかなかった。
もしも愛する人がいるのなら、写真を撮るのではなく、一緒に写真に写ることを。
あなたが撮ってくれた写真に、私はたくさん写っているけれど、お父さん、あなたの写真はこんなにも少ないんだよ。
愛する人が欲しいのは、愛する人が撮ってくれた写真じゃなくて、愛する人が写った、愛する人と写った写真なんだ。