親子丼という名前のサイコパスさ

オムニバス(エッセイ風小説)

親子丼という名前のサイコパスさ

 考えてみれば、「親子丼」という名前はなかなか残酷というかサイコパスな表現であると思う。

 鶏の肉と卵を使ったどんぶり。親子関係にある鶏肉と卵の両方の命を同時にいただく「親子丼」。

 なかなか残酷はネーミングだとは思う。しかし世の中に「親子丼」という名称は馴染みすぎて、このような話題は盛り上がりにくい。
 例えば友達や同僚に「親子丼ってなかなか残酷な名前だよね」と言ったところで場の盛り上がりや議論の深まりはたかが知れている。おおよそは軽く流され、言った人が「変わった人」認定されるくらいだろう。

 しかしながら、やはり「親子丼」という名前の残酷さは一度気になるとなかなか頭から離れないものだ。
 親子丼のサイコパスさについて、少し考えたい。

 なぜ親子丼という名前は残酷なのだろう。
 それはおそらく、親と子の命を同時に奪い、それを名前にするという形でわざわざ表現しているからだろう。

 言わなくてもいいことをわざわざ言葉にすることは、時として残酷だ。

 私達は生きていく上で食べることが必要だ。だから生きていく上で他の生き物の命をもらわないわけにはいかない。だから命をいただくことは残酷な現実かもしれないが、少なくともそこにサイコパスな逸脱した感覚はないだろう。
 問題は、わざわざ好んで奪う命を親子でセットにして、わざわざ「親子丼」という名称にしている点だ。

 鶏が食べられるために育てられたこと。
 卵を産んでもそれは人に食べられてしまうこと。
 生んだ卵を育てることもできず、卵から雛は育つことができず、ただ食べられてしまうこと。
 親も子もただ人間に食べられてしまうこと。
 親の肉が子の卵黄で絡められ、人はそれを「親子丼」と言う。

 私達は他の生き物の命をもらって生きている。
 それを自覚する必要はある。
 しかし、わざわざ「親子丼」と状況を(それは事実なのだが)言う必要は必ずしもないかもしれない。

 言わなくてもいいことをわざわざ言葉にすることは、時として残酷なのだ。

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