スタッフが美味しくいただきました。

オムニバス(エッセイ風小説)

この後スタッフが美味しくいただきました。

食べ物を粗末にしないテロップ

 非常に華やかで、ボリュームのある料理がテレビに映り、しかし完食された様子はなく映像が切り替わる。
 こういう場合に、「スタッフが美味しくいただきました」と、食べ物を粗末にしていない旨のテロップが入ることがある。

スタッフが美味しくいただくこと

 テレビに料理が写っても、それを最後まで食べる様子を流すことは少ないだろう。
 尺の都合もあるだろうし、食べる側の胃の許容量の問題もある。
 多くのテレビ番組は料理が「おいしそう」であることを伝えるものであり、食べきる様子を伝えるためのものではない。

 「スタッフが美味しくいただきました」というテロップが仮に出ても、本当に食べたかどうかはわからないし確認のしようも視聴者にはないだろう。
 美味しそうな料理はタレントが一口食べて残りは捨てられているのかもしれないし、本当にスタッフが残さず食べているのかもしれない。

テロップがあることで

 スタッフが美味しくいただきました。
 テロップがあることで、人はある種の安心感を覚えることができるのだろう。
 そこに真実はどうかは関係ないのかもしれない。

 食べ物を粗末にすることを許せない人も、一言「スタッフが美味しくいただきました」と添えられるだけで、その怒りを収めることができるかもしれない。

 番組を作る側も、そうやって不毛な責任から逃れることができる。

 けれど、繰り返しになるが、スタッフが美味しくいただいたかどうかなんて視聴者にはわからないのだ。

 私達は、ただの言葉や共感だけで安心感を覚えることがある。
 その言葉が本当かどうか、情報として意味があるかどうかは関係がない。
 ただ自分の思いを誰かが言語化してくれると、少し安心する。
 それは私達が事実や目に見えるものではなく、もっと抽象的で曖昧なもので世界をとらえているからだ。

 私達は、自分自身の勝手な概念で世界を見ている。
 その概念はある部分を勝手にそぎ落とし、ある部分を勝手に強調する。

 ある人が見ているのは、スタッフが美味しくいただき食べ物を無駄にしていない世界なのだ。

 ある人が見ているのは、食べもせずに捨てているのに「スタッフが美味しくいただきました」とテロップだけ表記し不要なクレームを避ける無難な世界なのだ。

 そうやって私達はこの複雑でとらえ難い世界をなんとか自分の中に収めようとしている。

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