テセウスの船
テセウスの船という思考実験の類がある。ギリシャ神話を元にしたパラドックスだ。
船の修理のために、古い部品を新しい物に入れ替えていく。
長い月日の中で徐々にパーツは置き換わり、全てのパーツが新しい部品に置き換わったとき、その船は同じ船と言えるだろうか。それとも別の船なのだろうか。
あるいは、取り替えた古いパーツを保存しておき、古いパーツ全てを使って一隻の船を作ったら、どちらがテセウスの船なのだろうか。
興味深い話だと私は思う。
パーツが全て入れ替わった船と、古いパーツで作った船は、どちらがテセウスの船なのだろう。
移り変わっていく世の中において、私達は、何を「それ」だと感じるのだろう。
大学進学を機に地元を離れ、そのまま就職した私は、たまに帰省するたびに町並みの変化を感じる。
どこにでもあるコンビニやチェーン店が増え、道路も舗装された。新築の家もよく目にする。
私が幼い頃に住んでいた町と、今の町はずいぶんと違う。
私にとってこの町は、今も懐かしい、テセウスの船なのだろうか。
私は、この町が私が生まれ育った町なんだなと今でも感じる。
新しく舗装された道の隅にある、古いままのコンクリートや脇道の溝。毎日歩いてた通学路。小学校の頃の私。
コインパーキングになったこの土地には、たしか古びた日用品店があった。私は一度も入ったことがなかったけれど。
この町の景色は変わったけれど、私はこの町の様々な片隅で昔の自分を思い出す。お父さんお母さんと過ごした記憶や、友達と遊んだこと。町並みが変わっても、ここは私が生まれ育った町なんだなとわかる。きっとそれは変わることはない。
だから地元は好きだけれど、今の街だって、私はけっこう好きなんだよ。
私はお母さんにそう言った。
この町で育った私は別の街に住み、働いて、結婚して、もうすぐ子供が生まれる。
私は生まれ育ったこの町が好きで、お腹の子と一緒に暮らす今の街にも愛着がある。
きっと私にとってはどっちもテセウスの船なのだと思う。
そうやって、思いや命が、あるものから別のものへつながっていくのだと思う。
この町に郷愁を感じながら、今の街に愛着を感じるように。
墓石の前で、私は子供の名前をなんにしようか考えている。