悪い人ではないから人間関係は疲れる
根は悪い人ではない私達
多くの場合、絶対的に悪い人間も絶対的に善い人間もいない。
多くの人は良いところもあれば悪いところもあって、「根は悪い人ではない」という評価をすることが可能だ。
だからこそ、人は誰かに傷つけられたり不快にさせられても、完全に人を憎むことができない。「あの人にもいいところはある」と、言い訳することができる。
だからこそ、人間関係は疲れる。
多面的な私達
私達は他人に傷つけられたり、不快にさせられたりする。(もちろん自分が他人を傷つけたり不快にさせることだってある)
そういうときに、他人をただただ憎み敵にし、排除することを考えれば楽かもしれない。
世の中には絶対的な悪があり、その悪を倒せば素晴らしい世界が待っている。
そういうシンプルさの中で生きることができれば、私達はいくぶん楽に人生を送ることができる気がする。
けれど、世の中の多くのことはそう単純ではない。
誰かに傷つけられたり、誰かに不快にさせられても、その人が絶対的な悪人とは限らない。
第一印象が正しいとは限らないし、今日のあの人が明日のあの人と同じ印象とも限らない。
逆だってそうなのだ。
誰かを愛おしく感じたり、誰かといて嬉しさや幸福を感じても、それはずっと続くとは限らない。
感じがいい人に裏切られることもあるし、何かのきっかけで距離ができることもある。
人には良い面もあれば悪い面もある。
人に優しく誠実にできることもあれば、乱雑に人と接したり悪意を持つことだってある。
根はいい人と弁護することもできれば、やっぱりあの人はダメなんだと切り捨てることもできる。
私達は、非常に多面的な存在だ。
人間関係に疲れる私達
私達はしばしば人間の多面性に振り回される。
嫌いな人に良いところがあったとき、私達は自分の価値観を変えないといけない。
好きな人に裏切られたとき、私達は自分の感情を変えないといけない。
私達は人を理解しようとして、理解できなくて、そのときに生じる感情に振り回される。
人間関係というもは、ずいぶんと疲れるものだ。
人を理解しようとすることは、なんとも難しく(きっとできなくて)、疲れるものだ。