子育てで会社を休む人のしわ寄せ

オムニバス(エッセイ風小説)

子育てで会社を休む人のしわ寄せ

疲れたな

 疲れたな……
 子育てを理由に頻繁に会社を休む人。そのフォローをすることに、私は疲れたんだと思う。

 そう思う人は少なくないんじゃないじゃないかな。
 「腹が立つ」とか「間違っている」とか「許せない」とかじゃなくて、「疲れた」。
 「疲れた」としか言えない社会の空気に、また疲れたんだと思う。

 育児をしている人に対して、そういう人がいる会社に対して、「腹が立つ」とか「間違っている」とか「許せない」と言ってしまったら、瞬く間に私が悪者にされる社会。

 子育てをしている人は悪くない。
 その人の子供も悪くない。
 それを受け入れる社会も悪くない。
 法律の縛りがある中で、調整に苦戦する会社も悪くない。
 じゃあ、私が悪いのかな? それも違うでしょ。
 そんな堂々巡りの思考の中で、ふと気づく。
 私は疲れたんだな。

子育て世代のフォロー

 子供を育てているのは、一部の人・一部の世代だ。けれど、子育て世代のフォローは全ての人に適用される。それはつまりこういうことだ。

 あなたもいつか子供を育てるかもしれない。
 あなたもかつて子供を育て、そのときは支えられていたのだ。

 もちろん中には、子供を育てる予定がない人、子供を育てることもないまま歳を重ねた人もいるだろう。けれどそういう人には、また違った理論が降りかかる。

 人は社会の中で何かしら助けられ、支え合って生きているのだ。

 この素晴らしき世界。

 けれど、それでも疲弊した自分にはしっくりこないことがある。

 それはつまりこういうことだ。

 私が未来に子供を育てるかどうかなんてわからない。
 私が子供を育てている頃、こんなに支えてもらえたかな。

 そういうふうに考えて、自分の器の小ささに呆れてしまう。

 でもね、私は思う。器の大きい人間なんてそうそういない。
 多くの人は自分の器の小ささとそれに対する自己嫌悪で葛藤するものなのではないか。

だから私は放棄した

 だから私は放棄した。
 疲れたものは疲れたし、そこに意味を見出せなくなった。

 別に子育てをしている社員を恨むとか、そういうことではない。
 ループする自己嫌悪の中にいても、しょうがないと思っただけ。
 悪循環の中にいても、良い循環は生まれない。

 人は人に、素直に親切にできるときもある。
 けれど自分が無理をする中では、その親切は自分を壊してしまう。
 だから自分を壊してしまう親切とは距離を置くことが必要だ。

 疲れた私を、私はあんまり好きじゃないから。

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