自由とは自分なりの不自由を持つこと

オムニバス(エッセイ風小説)

自由とは自分なりの不自由を持つこと

不自由の許容

 自由とはある意味で、自分なりの不自由を許容することと、私は思っている。

 それは一種の縛りのようなものであり、私達の生き方をいくぶん明確に、いくぶんシンプルにしてくれる。

 自分が選んだ自分の不自由さの中で生きることは、ある意味で自由なことだ。

自由の難しさ

 自由過ぎると人はどうしていいかわからない。
 夏休みの宿題は計算ドリルより自由研究が厄介だ。

 私達は何から何まで自由にしていい自由では悩んでしまうし迷ってしまう。
 だから自分にとって心地良い、ほどよい選択肢とかレールとかルールのようなものが必要だ。

 それは他人に決められたものでなくて(仮に他人が決めたとしても)、自分が納得した主体的なものでないといけない。

習慣という不自由

 習慣というものは自由であるための不自由の典型だ。

 朝飲む一杯のコーヒー。食後の紅茶。週末のドラマ鑑賞。寝る前の読書。
 人によって習慣は様々だ。しかしそれらがその人の生活のリズムを作り、それらに従って生活することは心地良い。

 別にそれはしなくてもいいことがほとんどだ。朝にコーヒーを飲まなかったからといって、多くの人は大きな支障もないだろう。
 しかしそういった習慣があることで人は何かを無駄に考えることをせず、他のことに集中できる。

 だから習慣に逆らった行動はむしろストレスになったりする。

 習慣は私達の生活を縛るが、その制限が余計な思考を排除してくれる。

自分のルールとその代償

 自分の中に何かしらのルールを設けていることも、自由であるための不自由だろう。

 例えば会社の飲み会に行かない。
 それは自由であるための不自由な制約かもしれない。

 現実問題、飲み会に行ったほうが上司に好かれるし、上司に好かれた方が会社での仕事はしやすい。

 しかしそれでもその人が飲み会に行かないのは、そういう不自由を支払った上で得られる自由があるからだろう。

 例えば飲みたくもないお酒を飲まずに済んだり、聞きたくもない愚痴を聞かなくて済んだり、起きたくもない夜に起きていたり、寝過ごしたくない休日に寝過ごさずに済むことだ。

 そういう自由のために、不自由を許容している人がいる。

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