友達とは?|かつての友人と疎遠になることについて

オムニバス(エッセイ風小説)

友達とは?

長い友人関係

 子供の頃から大人に至るまで、長く続く友人関係は一般的に貴重だと言われる。
 そういうものを親友と言うこともある。

 けれど僕が日々思うのは、どのくらいの頻度で維持されるものが、友達と言えるのだろうか。

 例えば毎日のように会う友達もいれば、たまにしか会わない友達もいる。

 盆や正月、地元に帰ったときに会う友達。
 そうかと思えば、何年か越しに会って再び意気投合する友達もいるかもしれない。

 一方で(例えば気が合わない会社の同僚のように)毎日会っていても友人と呼べない人間関係も存在する。

 要するに、再会したときにある種の懐かしさを共有できれば、会わなかった期間の長さは大した問題ではないのだ。そういうものが友達ではないかと、僕は思う。

それぞれの道

 だから僕は、友人関係においてできるだけ顔を合わせて関係を維持することがそこまで大切だとは思わない。

 人にはそれぞれのライフステージがあって、自然とすれ違う時期もあるものだ。

 独身でいると、結婚をした友人と会う機会が減ることがある。
 結婚をすると、独身の友人と時間が合わないことがある。

 でもそれは、その人が薄情だからではないし、無理に以前の形を保つ必要もきっとないのだ。

 小学生が中学生になって、高校生になって、大学生になって、社会人になって、そうやって自分の環境が変わり自分も変化する中で、人間関係も変化していく。

 以前は毎日のように会っていた友人に、今ではすっかり会っていない。
 そういうこともあるだろう。

 でもそれは、悪いことではないし、誰かのせいでもない。僕のせいでもない。
 僕達は流れていく時間の中で生きている。

それでも再び交わることがあれば

 それでもふとしたときに、人は誰かと再会するときがある。
 久しぶりの再会は、ぎこちないところもあれば、確かに共有できる懐かしさもある。

 その人と再び会う機会があるのか、もう二度と会わないのか、それはあとになってみないとわからない。だから人は、誰かと会い続けることにこだわることもないだろう。少なくとも友人という人間関係においては。

僕達の友人関係

 僕達はそのときそのときで様々な人間関係にさらされる。
 かつての友人に当時ほど会わなくなる期間も訪れる。

 そのとき人は、彼ら・彼女らと友達なのだろうかと自問する。そして希薄になっていくかつての人間関係を振り返り、自分の薄情さとか、移ろいやすさとか、不変なるもののなさを感じる。それはなんとも言えない無力感だ。

 けれどそれは決して何かを誤ったわけではないし、誰かに責任があるわけでもない。

 何かの機会に僕達は再会することがある。そのときある種の懐かしさを共有することもある。
 そうであるなら、離れている期間は決して希薄なものでも薄情なものでもない。
 仮にもう会うことがなかったとしても、それは罪ではないのだ。

 僕達の人間関係は点でも線でもない。
 おそらくもっと流動的で捉えどころのないものなのだ。

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