自分が嫌になったときの言葉たち

詩・散文

自分が嫌になったときの言葉たち

みんな自分自身にどこかうんざりしながら生きている

 自分自身を100%好きな人間なんてなかなかいない。
 みんな自分自身のどこかが嫌になりながら、うんざりしながら生きている。そういうものだ。
 だから肩の力を抜いていい。

 それは長年の付き合いの友達の、短所に呆れることに似ている。
 どうして俺はこいつと居るんだろうとふと思うときもある。
 でも結局、こうして近くでダラダラ、互いのくだらなさを許せる間柄もこいつなんだと。

自分の嫌いな自分も悪い奴じゃない

 人は多面的な存在だ。一人の人間にいろんな側面がある。
 強い部分もあれば弱い部分もあり、優しい部分もあれば冷酷な部分もある。
 自分が嫌いな部分もあれば、悪くないと思える部分もあるかもしれない。

 自分の中にいろいろな自分がいる。
 自分の中の嫌いな自分は、無能かもしれない。お調子者かもしれない。短絡的かもしれないし、楽観的に過ぎるかもしれない。あるいは逆にうじうじと心配症かもしれない。

 いずれにせよ、自分の嫌いな自分はなんとも好ましくないが、少なくともそこまで悪い奴じゃないかもしれない。
 少し話してみれば、根はいい奴だったりする。
 だからたくさんいる自分の中の何人かくらい、そういう奴でもいいかもしれない。

自分のペースで生きることは好き嫌いを超越する

 自分のペースで生きていると、自分が嫌いとか好きとか考えなくなる。
 ただ自分はこうあるだけ。そう思える。

 自分を認めることができている人は、他人から見ると自分を好きな人のように見える。
 けれど、自分のペースで生きている人は意気込んで「自分を好きになろう」とか考えていない。意外と。

自分の嫌いな部分を他人はどうでもよかったりする

 自分は自分の嫌いなところが許せなくても、他人から見るとどうでもよかったりする。
 良くも悪くも、他人は自分が思うほど自分に関心がないものだ。

 「そんなもんだ」と思えば、人生は幾分楽になる。

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