自分が嫌になったときの言葉たち
みんな自分自身にどこかうんざりしながら生きている
自分自身を100%好きな人間なんてなかなかいない。
みんな自分自身のどこかが嫌になりながら、うんざりしながら生きている。そういうものだ。
だから肩の力を抜いていい。
それは長年の付き合いの友達の、短所に呆れることに似ている。
どうして俺はこいつと居るんだろうとふと思うときもある。
でも結局、こうして近くでダラダラ、互いのくだらなさを許せる間柄もこいつなんだと。
自分の嫌いな自分も悪い奴じゃない
人は多面的な存在だ。一人の人間にいろんな側面がある。
強い部分もあれば弱い部分もあり、優しい部分もあれば冷酷な部分もある。
自分が嫌いな部分もあれば、悪くないと思える部分もあるかもしれない。
自分の中にいろいろな自分がいる。
自分の中の嫌いな自分は、無能かもしれない。お調子者かもしれない。短絡的かもしれないし、楽観的に過ぎるかもしれない。あるいは逆にうじうじと心配症かもしれない。
いずれにせよ、自分の嫌いな自分はなんとも好ましくないが、少なくともそこまで悪い奴じゃないかもしれない。
少し話してみれば、根はいい奴だったりする。
だからたくさんいる自分の中の何人かくらい、そういう奴でもいいかもしれない。
自分のペースで生きることは好き嫌いを超越する
自分のペースで生きていると、自分が嫌いとか好きとか考えなくなる。
ただ自分はこうあるだけ。そう思える。
自分を認めることができている人は、他人から見ると自分を好きな人のように見える。
けれど、自分のペースで生きている人は意気込んで「自分を好きになろう」とか考えていない。意外と。
自分の嫌いな部分を他人はどうでもよかったりする
自分は自分の嫌いなところが許せなくても、他人から見るとどうでもよかったりする。
良くも悪くも、他人は自分が思うほど自分に関心がないものだ。
「そんなもんだ」と思えば、人生は幾分楽になる。