人の悪口を言わないのは自分のため
人の悪口を言わないのは自分のためでなる
人の悪口を言わないことで、結果として自分が救われることがある。
人の悪口を言わないのは他者に優しいからではなく、自分のためになるというのは教訓の一つだ。
人の悪口を言ったり、人を攻撃したり、人を馬鹿にすることは避けたほうが結果として自分のためになることがある。
誰しもが間違いを犯す
人を非難しても、いつか同じような非難を自分が受ける可能性はある。
完璧な人間はいないし、人は誰でも間違いを犯すものだからだ。
人の失敗を責めて、過ちを批判して、悪口を言って。
そうやって「自分はそんなことしない」と線を引いてみても、その一線は思ったよりもブレてしまう。
誰しもが「強い自分」と「弱い自分」を持っている。
「強い自分」のときは自分が失敗しない気がするし、自信が持てるし、だから過ちを犯した人を「なんでそんなことしてしまうんだろう」と見下す。
けれど人生は長いから、「弱い自分」になるときは誰でもある。
それは悩みを抱えたときかもしれないし、油断したときかもしれないし、環境が変わったときかもしれない。いずれにせよ「弱い自分」のときは自信が持てないし失敗が怖いし正しいと思っていることを声に出せない。
そして「弱い自分」のとき、「強い自分」が避難していた人と自分がそこまで変わらないことを思い知らされる。
「情けは人の為ならず」という言葉がある。
人の悪口を言わないことは、いざというとき自分を救ってくれる。
偽善にならないこと
人の悪口を言わないことと、綺麗事しか言わない偽善者になることは似ているようで違う。
人の悪口を言わないと、場合によっては相手から「綺麗事しか言わない人」と見られてしまう。
誰しもが人と話すときに共感を求める。
愚痴を言えば共感してほしい、悪口を言ったときは賛同してほしい。
そういうときに「でも○○さんもいいところがあるから」と言ったところでその人の心には響かないだろう。そういう言葉を求めているわけではないからだ。
人の悪口を言わず、けれど他人と共感しコミュニケーションを取るにはどうしたらいいのだろう。
「罪を憎んで人を憎まず」という考えにヒントがある。
人の悪口を言わず、けれど相手には共感し、事実を事実として受け止めることが大切だ。
AさんがBさんの悪口を言っているとしよう。
このとき、きっとAさんはBさんの何か行動や考えを避難しているはずだ。
その行動や考えは確かに「良くないこと」かもしれない。
私達はその「良くないこと」を「良くないこと」として認め、Aさんの憤りに共感する。
けれどBさん自身の人格を否定したり、貶めたりすることまでは私達はしなくていいかもしれない。
私達は事実に基づき他者の感情に共感するが、他者の人格を自分の感情で攻撃する必要はないかもしれないのだ。
その配慮と教訓が、いつか自分が傷ついたり悩んだときの救いとなるかもしれない。