一億総割に合わない社会

オムニバス(エッセイ風小説)

一億総割に合わない社会

一億総○○社会

 一億総中流社会と日本がかつて呼ばれ、それが崩壊したと言われて久しい。
 それに代わって「一億総○○社会」と、別の呼び名が使われることがしばしばある。
 もしもそれにあやかるならば、今は「一億総『割に合わない』社会」なのかもしれない。

誰もが自分の立場は損をしていると感じている

 この時代は、誰もが「自分ばっかり損をしている」と感じているのかもしれない。

 上を見ればキリがないし、下を見てもキリはないが、「それにしたって自分はもうちょっと報われていいはずだ」と思わずにはいられない。

 そういう余裕のなさが世間にあふれている。
 自分に対しても、他人に対しても、余裕を持つことができなくなっている。
 自分に余裕がないから他人の余裕に寛容になれないし、他人も自分に余裕のなさを強要してくる。

余裕が許されない社会

 今の世の中は何かと余裕が許されない社会になりつつあるのかもしれない。

 何かと効率性が重視されるから、物事を限界まで詰め込める。
 ネット上など誰もが言いたいことを(それは匿名なのかもしれないが)言えるから、「それはおかしい」と「割のいい仕事」に意見しやすい。
 それは悪いこととは言い切れない。しかしそれが人の余裕を奪う可能性もあるかもしれない。

 例えば教師という仕事。
 昔なら夏休みは教師も家にいることができたかもしれない。
 それはある意味で「割のいい仕事」だったのかもしれない。
 割りのいい仕事だからちょっとした苦労は許容できるし、割りのいい仕事だから優秀な人材が教師になりたいと思える。
 そういう、効率は良くないかもしれないがそこから生まれる余裕のようなものがあった(効率化が悪いわけではない。問題は効率化によって得た余裕を許容できないことだ。もっともっとと人は求めてしまう)。

 今の時代はそういう余裕が許されない。
 生徒達がいなくても、教材を作ったりある意味で「効率的な」仕事ができる。
 「教師が生徒のように夏休みに休むのはおかしい」と声を上げる人がいる。
 教師が年中働くのは当たり前とされてしまう。

 他の仕事だって似たようなものだ。
 「苦労してなったわりには得することが少ない」と感じているかもしれない。
 「自分は頑張っているのに頑張っていないあいつが得をしている」と感じているかもしれない。

 そうやって余裕のなさに晒されるから他人の余裕も許容できない。

誰もが損をする立場に属している

 誰もが自分は損をする立場にいると感じ、社会や現状に不満を感じている。

 「一億総中流」が終わり格差が広がりつつある。
 「一億総活躍」を目指し誰もがあくせく働いている。

 世間は変わらず不景気で、物価は上がり賃金は上がらず、少子化で高齢化で、自分の生活に余裕がないと感じる。そんな多忙な日々の隙間から、得をしている人間や楽をしている人間がちらちら目に入る。
 どうして自分ばっかり。
 どうして自分の世代ばっかり。
 どうして自分の仕事ばっかり。
 自分ばかりが「割を食っている」感じがする。
 誰もが損をしていると感じる、「一億総割に合わない社会」。

 と、そういった考え方もできなくはないが、結局は考え方の一つに過ぎない。
 ネガティブな考えであれやこれやと悩むより、前向きに自分にできることを考えたほうが建設的かもしれない。
 だからこの考えをあれやこれやと議論しても、それこそ「割に合わない」話だ。

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